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【らぁめん山と樹】第14食 妙法寺参詣道(堀之内道)から鍋屋横丁”お題目石”(鎌倉街道)・鍋屋横丁交差点(青梅街道と鎌倉街道)へ 2018/10/14



最近、連日で鍋屋横丁へ行く機会があった。
自宅からここまでの道のりは自転車で「鎌倉街道」を利用していた。
中野区道鍋屋横丁通り(鎌倉街道=中道=)のちょうど中間点にあたる交差点に”お題目石”という「堀之内道(妙法寺参詣道)への道標」を示す石碑が建っている。
妙法寺へ続く堀ノ内道はどの道を言うのだろう・・・
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昨日の夕方、歴史探索に出かけたが、日没で暗くなってしまい、画像としてNG。
今朝はそのリベンジに行こうと決めて、まず「山と樹」へ訪問。
日曜デイタイムは劇団女子が助手をしている日。
久々に会って歓待してくれた。


オーダーは
サンマだしの中華そば(塩) 830円
感想だが、醤油味の方が秋刀魚の味が引き立っていた。
醤油味を推します!
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「山と樹」を出てから「日蓮宗 本山 堀之内妙法寺」に向かった。
妙法寺は元禄年間(1688~1704将軍徳川綱吉の治世)に「厄除け祖師」として有名になった。
仁王門(山門)から入り祖師堂・鐘・仁王門をぐるりと撮影。

祖師堂から本堂(三軌道)へ


妙法寺からお題目石までの最短距離を洗い出すと、一本の道が判明。
これが「堀之内道(妙法寺参詣道)」ではないだろうか。
地図の道は現在「和田帝釈天通り」と称されている。
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和田帝釈天通りを直進する前に、環七通り沿いで「鍋横道標(明治11年建立)」を発見。
この道標には、青梅街道と鎌倉街道が交差する鍋屋横丁交差点から妙法寺までの距離(「ほりのうちへ十八丁十間」)が記されている。
裏面には、鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証も記されているが、囲いの中に入る訳にはいかないので断念した。


和田帝釈天通りを走行中、以下の案内板を発見(杉並区和田3-10-1)。
やはりこの一本道こそ「堀之内道(妙法寺参詣道)」だった。
青梅街道の鍋屋横丁交差点で鎌倉街道(中野区道鍋屋横丁通り)を南下。
”お題目石”が建てられている四つ角を西に進むと和田帝釈天通りと繋がって妙法寺に到達する。
案内によれば、この道が江戸時代には、和田村と高円寺村の境界にあたり、和田村の北端・高円寺村の南端に位置している。
案内には当時の町医者の随筆『塵塚談』が紹介されており、妙法寺は江戸時代後期には「厄除け祖師」として江戸庶民の信仰を集め、新宿から妙法寺の門前まで、水茶屋、料理茶屋、酒食数100軒が並ぶ賑わいぶりだったという。
そして、2007年、この一本道の途中にある南側に女子美大を発掘したところ、のっぺい汁を出すときに使用する「しがらき」という茶碗が出土したという。
なお、案内文の最後に「明治に入ると(略)中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました」と記載されている。
※堀之内新道に関するブログ
【博多ラーメンばりこて】第1食 堀之内新道歴史探索!堀之内新道と大久保通り交差点(田中稲荷前)にある人気の博多ラーメンのお店!

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中野通りを横断し、無事に鎌倉街道(中野区道鍋屋横丁通り)に到着。
改めて”お題目石”を確認。
石碑には
「ほりの内道」
「是より妙法寺十八丁半」
「享保三年十月六日 浅草住石工 願主 橋本権助」
日蓮宗特有の筆「南無妙法蓮華経」
と彫られている。
享保三年・・・米将軍と呼ばれた第8代将軍徳川吉宗公、所謂「暴れん坊将軍」の治世です!


その後、鎌倉街道を北上し、青梅街道との交差点(鍋屋横丁交差点)へ。


「鍋屋横丁の由来」
東西には青梅街道が走り、南北には鎌倉街道が走る。
北は新井薬師、南は妙法寺に向かうルートとして利用された。
鍋屋は草餅とともに、庭200株以上の梅林で有名になったという。
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「道しるべの変遷」
大田蜀山人が文政年間に描いた鍋屋横丁の様子
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「中野区民生活第一巻」
大正初期の鍋屋横丁付近(青梅街道と鎌倉街道交差点)
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