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【日常】Those were the best days of my life.(恩師 松田行司さんへの感謝の思い) 2022/03/29

Those were the best days of my life.


新卒から12年弱お世話になった企業
株式会社イノアックコーポレーション


「人生最良の日々」を支えて下さった方は、当時、常務取締役営業本部長で、私の退職後、代表取締役社長に就任した松田行司さん。
代表取締役社長時代の画像(右の方、左は東海ゴムの社長)
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2000年10月、営業本部開発部物流資材グループ全国統括リーダー。
当時、20億円規模のパッケージ事業を50億円に伸ばして事業部に昇格させることが発足理念の部隊だった。


イノアックは二輪タイヤシェア世界一の井上護謨工業(ブランド名はIRCタイヤ)を親会社にもつ名古屋発祥の企業であり、日本で初めてウレタンを導入した化成品製造成形メーカーだ。
企業体質は創業一族の独裁。
本日現在の代表取締役CEOは、今年5月に93歳になる創業二代目の”SI”と呼ばれる人物(井上聰一さん)だ。
表現は悪いが、歴代の代表取締役社長はみな、独裁オーナーの”雇われ社長”ということになる。


私が在籍していた頃の事業規模は、連結2000億円、非正規雇用・グループ企業を含めると従業員3000人の大企業だった(現在は1800億円、2000人規模)。


既に事業部として存在していたのは、自動車部品、OA機器、住環境、ウレタン、ゴムエラストマー。


日本全国に支店営業所があるのに、年間出張旅費700~800万円を使い、飛行機利用だけでも年間160回以上、日本全国を飛び回り、事務所(大崎)には年間20回くらいしか戻らない。
過去、そして今でも前列のない活動をしていたのは他ならぬ私だ。


前代未聞のド派手な活動は、2002年から「真似をされたら困る」という意識の役員連を恐れさせた。
私はオーナーSIに見込まれて、周囲から見たら特別扱いされてきた。
もちろん他の追随を許さないほどの結果も出していたし、出世も早かった。
私は自身が開発した製品の全国制覇に命を懸けた。
要するに、オーナー一族から袖にされることを覚悟した。


「根気強く、周囲の理解を得ること」


過去のブログでも紹介したことがあるこの台詞は、当時、私の活動を支えて下さった松田行司さんの激励の言葉だ。
私の自己実現と事業の成功が表裏一体であると関係者はみんな理解していたが、活動が突出し過ぎていたので、全会一致の応援が得られなかった。


松田さんは周囲から責められながらもじっと我慢して、役員連との形勢を逆転させるチャンスを辛抱強く待っていた。


結果は、全国生協への展開に成功して、反対派を応援派に変えてくれた。
2003年度最優秀営業賞を受賞した(事業は私が辞めるまでには38億円まで到達した)。
当該製品は、今では、セブンイレブンやローソンでも見かけるまでメジャーになった。
エア・ウォーター最年少課長(東京大阪名古屋3支店課長)、マイナンバー本の成功もあったが、私にとっては、これ(Zパック拡販成功)が、人生最大のヒットになった。
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首都圏コープ

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現在、松田さんは子会社の東北イノアックの代表取締役に従事している。
これまでの功労を評価されての名誉職だろう。
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松田さんは、イノアックで大活躍していた当時の私に、どんなことを期待して応援してくれていたのだろう。


私が選んだ人生は、最終的には、会社を利用して組織で出世し、事業や社員を束ねることではなかった。
自身の中にある正義を貫くために、他人から支配を受けない道を選んだ。
そのために、個人技で生き残れる力を身につけた。
イノアックを辞めてから16年が経過し、既に住宅ローンも完済し、年収1000万円プレイヤーの私がいる。
年収については、会社員を続けていたら、50歳前には到底稼げなかった金だ。
今、サラリーマンのような退職後の不安もない。
中間管理職として板挟みになることもない。
何よりも51歳にして、仕事に縛られない生き方ができる。
経済的な将来不安なく(不可抗力があった場合を除く)、多くの人がやれないような人生のチャレンジができる。


松田さんが望んだ生き方とは大きく逸れたと思うが、今ある自分に納得している。


松本は異端の人生を歩んできたが、松田さんという人生の恩人に会って、胸を張って、当時のことについて感謝を伝えたい。


東北イノアックに行ってお礼を伝えたいなあ。