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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】全章 肥前国島原藩松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と周辺郷土史~千代ヶ池・目黒1丁目(傳道・上耕地地区)の三田用水暗渠地帯・目黒砲薬製造所・三條實美・久米邦武・金毘羅坂・権之助坂・行人坂・茶屋坂) 2019/05/22

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著書『図解とQ&Aですっきりわかるマイナンバーのしくみ』(宝島社)=33,000部=トーハン調べ2015/11/4週間ベストセラー単行本ビジネス書6位
共著『入門 マイナンバーの落とし穴ー日本一わかりやすい解説』(毎日新聞出版)=10,000部
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『週刊エコノミスト2019/4/9号』(毎日新聞出版)2019年4月1日発売「特集:始まる!働き方改革法 」”素朴なギモン”2テーマ寄稿

『週刊エコノミスト 2018年7月17日号』(毎日新聞出版)2018年7月9日発売「特集:変わる!労働法」最大枠2テーマ3頁寄稿

『週刊エコノミスト 2018年2月20日号』(毎日新聞出版)2018年2月13日発売「特集:みんなの労働法」最大枠2テーマ5頁寄稿

『週刊エコノミスト 2015年9月15日特大号』(毎日新聞出版)2015年9月7日発売「特集:マイナンバーがやって来る!」最大枠5頁寄稿

講演

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東京都知事小池百合子さんにテレビで紹介されました!

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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】

目次

序章 27年過ごしたマンション目黒苑と松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷(富士山・丹沢大山・秩父連山を一望した絶景スポット)

第1章 深溝松平家の藩と藩邸の変遷

1.深溝松平家(松平主殿家)

2.深溝松平家の藩の変遷

3.深溝松平家上屋敷の変遷

①永田町上屋敷
②常盤橋上屋敷
③三田上屋敷
④桜田上屋敷
⑤神田橋上屋敷
⑥数寄屋橋上屋敷

4.深溝松平家中屋敷の変遷

①浅草中屋敷
②三田中屋敷

5.深溝松平家下屋敷・抱屋敷・蔵屋敷の変遷

①深川下屋敷
②千代ヶ崎抱屋敷
③渋谷下屋敷
④田町蔵屋敷
⑤傳道抱屋敷
⑥泉水下屋敷(興慶園)
⑦西日本に置かれた下屋敷

第2章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷

1.目黒にあった2箇所の抱屋敷

①千代ヶ崎抱屋敷
②傳道抱屋敷

2.4村入会

3.江戸幕府による目黒砲薬製造所稼働と千代ヶ崎抱屋敷の領域縮小

4.目黒火薬製造所「火薬運搬軌道」の遺構

5.千代ヶ池

①千代ヶ池の位置
②「目黒千代ヶ池」(浮世絵師 初代歌川広重)

6.切支丹灯籠

①大鳥神社所蔵「切支丹灯籠」
②大聖院所蔵「切支丹灯籠」

第3章 目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯

1.江戸の6大飲用水と三田用水の成立

①江戸の6大飲用水
②三田用水の成立
③銭瓶窪口跡
④三田用水跡の碑
⑤三田用水普通水利組合跡

2.目黒1丁目の三田用水

①上空地図を使った千代ヶ崎抱屋敷と三田用水等のエリアマップ
②千代ヶ崎抱屋敷西の最北端
③千代ヶ崎抱屋敷西の最北端を通過した三田用水その1~旧茶屋坂下に至る三田用水暗渠
④千代ヶ崎抱屋敷西の最北端を通過した三田用水その2傳道抱屋敷に沿って通過する三田用水
⑤千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水の暗渠化
⑥千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその1~目黒1-10-13と1-9-1の間
⑦千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその2~目黒1-10住宅地内
⑧千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその3~目黒1-9-6マンション西目黒苑 対向1-5-1

第4章 三條實美と久米邦武~元肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷領地の一角に在住した有力者たち

1.公家出身”梨号”三條實美とパレス三條の碑

2.『神道ハ祭天ノ古俗』”易堂”久米邦武

第5章 元肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂

1.千代ヶ崎抱屋敷南側境界線の権之助坂

①由来
②放射3号支線開通

2.金毘羅坂(廃仏毀釈運動の犠牲になった金毘羅大権現社・別当寺曹洞宗鳳林山傳燈院高幢寺)

①由来
②金毘羅大権現社
③廃寺

3.行人坂と太鼓橋・椎の木・夕日の岡(初代・2代目歌川広重と初代歌川国貞と長谷川雪旦のスケッチとともに)

①行人坂
②太鼓橋・椎の木・夕日の岡(夕日か岡)

4.”ガッカリ名所”茶屋坂の検証

①茶屋坂の原形と爺々が茶屋の位置の検証
②爺々が茶屋を訪れた徳川将軍
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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡

松平主殿頭上空地図
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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《資料》肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒1丁目界隈(安政3年実測復元地図)

肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒一丁目界隈(安政3年実測復元地図)

《資料》肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒1丁目界隈(明治40年前後復元地図)

肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒一丁目界隈(明治40年前後復元地図)

《資料》肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒1丁目界隈(平成15年地図)

肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒一丁目界隈(平成15年地図)
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【序章】27年過ごしたマンション目黒苑と松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷(富士山・丹沢大山・秩父連山を一望した絶景スポット)

昭和46年春から平成9年2月上旬まで、約27年間暮らしてきた目黒(目黒区目黒1-3)。
平成31年2月27日、毎日新聞出版『週刊エコノミスト』編集部記者と、4月1日発売号への寄稿記事に関する打ち合わせをした際、ふとしたことから、出身地目黒のことが話題となった。
「そういえば、私が住んでいたマンションは、急勾配の坂の上にあったのですが、松平氏藩邸の敷地内だったんですよ」と伝えた。
すると、当該記者から「松平にも色々あるから。どこの松平氏?」と質問を受けた。
2013年秋、大鳥神社に行ったとき、旧藩邸の敷地内から隠れキリシタンの灯籠が発見されたことを知り、長崎に関係している大名であることは認識していた。
当該記者との会話がきっかけとなり、今の家(豊島区)に引っ越してから10年以上の間、ずっと収納場に仕舞い込んできたデジタル古地図(株式会社エーピーピーカンパニー『江戸明治東京重ね地図』)を引っ張り出してみた。
現在、目黒に行く頻度も少なくないので、当時の目黒での生活圏に関する郷土史を調べ始めた。
すると、興味深い史実が判明し、三田用水の暗渠をたくさん発見することになった(以下①~⑨には、当時から知っていたことを含む)。
①私が住んでいたマンションは、肥前国島原藩松平主殿頭の2万坪を誇る抱屋敷(千代ヶ崎抱屋敷)の敷地の一部だった
②大正時代、抱屋敷の敷地内から隠れ切支丹灯籠が発見された
③抱屋敷には、歌川広重の浮世絵に登場した千代ヶ池と『絶景観』と呼ばれる別荘があった。
④抱屋敷は、中目黒村、下目黒村、三田村、上大崎村の四村入会だった。
⑤抱屋敷の中を三田用水が通過していた(目黒1丁目は暗渠の宝庫)。
⑥パレス三條(1969年1月竣工のマンション)の入口の碑文は、三條實美(さんじょうさねとみ)のモニュメントだった
⑦久米美術館の意義は、明治時代に抱屋敷の土地の一部を所有した久米邦武に由来していた
⑧小名「千代ヶ崎」の行政区分の変遷
⑨火薬運搬軌道の存在
など。
27年間過ごした目黒について、肥前国島原藩主松平主殿頭を中心に、古地図や史料、現地写真などを織り交ぜてブログに纏めてみた。

《参考》
私が生活したマンション目黒苑(目黒1-3-23、1966年5月竣工)はこの坂上にある。
マンション1階の高さ位置については、これだけ登っても、丘の上にあった千代ヶ崎抱屋敷の中腹くらいの地点に過ぎない。
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バブルを迎えるまで、斜面には崖が残っており、バッタやイナゴ、蟻地獄なども生息していた(土砂崩れの危険性が問題視され、管理組合の決定でコンクリートブロック化された)。
苑内には自然の木々も沢山繁っていたので、ネズミモチの木には、たくさんのライポン(キグマ)がやって来た(住民の反対で伐採されてしまった)。
夏になると青大将(蛇)が出没し、驚かせられた。
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なお、マンション屋上から、富士山、丹沢大山、秩父連山の見晴らしがよくて、特に秋・冬の夕方には、当時、地元の友人や、交際していた人とよく眺めた(富士山はマンション目黒苑の坂上からも見えた)。
この画像は富士山と反対側の東の方角(東京タワー側)を背景にして、マンション屋上の最上部で平成元年秋に撮影。
千代ヶ崎抱屋敷の頂上地点は、テニスコート付きの東京営林局だったが、このとき既に退去して更地になっていますね。
時代はバブル期です。
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富士山の景観は、目黒川目黒新橋沿いに、10階建ての伊藤忠燃料ビル(現在のオリックス目黒ビル。次の画像の建物)が建ったことで見れなくなった。
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こちらは、上記画像で写し出された、千代ヶ崎抱屋敷の頂上地点から撮影したもの。
この頂上地点の、目黒新橋の地点との標高差は推定で建物14階分に相当する。
動画中、真下はマンション目黒苑の建物までの上り坂(坂の頂上と目黒新橋との標高差は推定建物10階分)。
右手はマンション目黒苑(目黒新橋と屋上の標高差は推定建物20階分)。
障害物がなければ、高台の絶景スポットだったことがわかる。
正面の反射ガラスの建物が、富士山の景観を棄損した10階建て元伊藤忠燃料ビル。
千代ヶ崎抱屋敷頂上からも見るのは不可能。
このビルの両サイドには、その後、このビルよりも遥かに背が高い高層ビルやタワーマンションが並んでしまい、残念でならない。

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目黒日大(かつての日の出女子学園・日の出幼稚園、大正8年=1919年現在地に移転)の正門は目黒駅とは反対側の目黒新橋付近にある。
日の出幼稚園に通っていた昭和50年から昭和51年当時、うちのマンションの坂を下って、通りを挟んで、日の出女子学園の裏門に直通する道を使って通園した。
山口百恵さんが日の出学園に通った時代で、何度かお見掛けした。
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現在、裏門に続く道も駐車場もなくなり、住宅地になっている。
裏門に続く道の所有者は、そのお隣にある日の出女子学園創設者小林一族の土地でした。
私の幼稚園の担任が創設者一族の方だった(あやめ組、ほし組)。
そういえば、中学生の頃、写真の場所で、菊池桃子さんを見た。
以下の画像は、日の丸幼稚園‘’ほし組‘’にて昭和51年の七五三(だったと思う)
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【第1章】深溝松平家(松平主殿家)の藩と藩邸の変遷

1.深溝松平家(松平主殿家)

①深溝松平家は三河松平氏から分家した「十八松平」の1つであり、先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。
②深溝松平家は、大永4年(1524年)、深溝城主・大場次郎左衛門を征討した松平元心が、弟の忠定にその戦功を譲る形で発足された(拠点「三河国額田郡深溝」)
③主殿頭(とのものかみ)の通称
第3代松平伊忠が”主殿助”、第4代家忠以後”主殿頭”を通称。深溝松平家は「松平主殿家」と別称される。
④肥前国島原藩主深溝松平家墓所は、現在、国指定の史跡となっている。

《資料》愛知県幸田町HP
国指定史跡島原藩主深溝松平家墓所
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2.深溝松平家の藩の変遷

慶長6年(1601年)三河国深溝藩1万石の大名となる→慶長17年(1612年)三河国吉田藩へ転封(加増され3万石)→寛永9年(1632年)三河国刈谷藩→慶安2年(1649年)丹波国福知山藩(加増され4万5000石)→寛文8年(1668年)肥前国島原藩(加増され6万5,000石)→寛延2年(1747年)下野国宇都宮藩(加増され6万6,000石)→安永3年(1774年)肥前国島原藩(加増され7万石)へ再移封

3.深溝松平家上屋敷の変遷

①永田町上屋敷(少なくとも1627~1657、三河国吉田藩→三河国刈谷藩→丹波国福知山藩)
拝領の時期及び位置は定かではないが、寛永4年(1627年)には永田町に上屋敷を構えていた。
その後、明曆の大火によってこの地に山王社が移転することになったため、明暦3年(1657年)返上。

②常盤橋上屋敷(1657~1667、丹波国福知山藩)
明曆3年(1657年)の屋敷替えで、常盤橋にあった伊奈半左衛門の屋敷を拝領。
同時に浅草中屋敷と深川下屋敷を拝領。
寛文7年(1667年)の屋敷替えで、常盤橋上屋敷と浅草永田町を同時に返上。

③三田上屋敷(1667~1672、丹波国福知山藩→第一次肥前国島原藩)
寛文7年(1667年)の屋敷替えで、三田の京極高國の屋敷を拝領。
寛文12年(1672年)に三田上屋敷は中屋敷となり、明治に入り国に摂取されるまで存続。

④桜田上屋敷(1672:~1687、第一次肥前国島原藩)
文12 年(1672年)の屋敷替えで、桜田の秋田淡路守の屋敷を拝領。
貞享4年(1687)の屋敷替えにより返上。

⑤神田橋上屋敷(1687~1691、第一次肥前国島原藩)
貞享4年(1687年)の屋敷替えで、神田橋の井上相模守の屋敷を拝領。
元禄4年(1691年)の屋敷替えにより返上。

⑥数寄屋橋上屋敷(1691~明治、第一次肥前国島原藩→下野国宇都宮藩→第二次肥前国島原藩)
元禄4年(1691年)の屋敷替えで、数寄屋橋の九鬼長門守の屋敷を拝領。
江戸幕府崩壊後も所有を許され、藩邸の一角では、土地を借用したた明治法律学校が開校された。
のちの明治大学である。
「明治大学発祥の地」(千代田区有楽町2-2)
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案内板を転機する。
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明治法律学校(現明治大学)は、明治14年(1881年)1月17日に旧肥前国島原藩松平氏の上屋敷であったこの地に開校した。創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人は、貢貢生として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校に進学し、つづいて明法寮でボアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し、とくに「権利自由、独立自治」の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも30歳に満たぬ白面の書生であった。
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《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(松平主殿頭上屋敷)
松平主殿頭の上屋敷は数寄屋橋付近。
直ぐ近くに、名奉行であった大岡越前守忠相(1677~1752年)で有名な南町奉行所があることがわかる。
松平主殿頭上屋敷(江戸)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(松平主殿頭上屋敷)
松平主殿頭上屋敷(江戸・平成)

《参考》南町奉行所跡(JR有楽町駅中央改札口東側)
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大岡越前守忠相
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大岡越前守忠相藩邸(千代田区霞ヶ関1-1、弁護士会館)
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4.深溝松平家中屋敷の変遷

①浅草中屋敷(1657~1667、丹波国福知山藩)

常盤橋上屋敷の項で既述した通り。
『鳳岡林先生全集』(ほうこうはやしせんせいぜんしゅう)によれば、浅草中屋敷の庭には園林が築かれていたという。

②三田中屋敷(1672~明治、第一次肥前国島原藩→下野国宇都宮藩→第二次肥前国島原藩)
三田上屋敷の項で既述した通り、三田上屋敷は、寛文12年に中屋敷となる。
明治に入ってから政府に接収され、のち慶應義塾に払い下げられた。
慶應義塾大学三田キャンパス(港区三田2-15)。
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校舎は高台に建てられている。
土台に使われた石垣は、中屋敷当時のものを転用しているのだろうか?
以下リンクには、肥前国島原藩が東京府から上地を命ぜられ、慶應義塾がこの地を借用するまでのプロセスが詳しく記載されている。
[慶應義塾豆百科] No.13 三田移転
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《資料》明治40年前後実測復元地図(慶應義塾三田キャンパス)
松平主殿頭中屋敷(明治)

《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(松平主殿頭中屋敷)
松平主殿頭中屋敷(江戸)

《資料》安政3年・明治重ね地図(松平主殿頭中屋敷・慶応義塾大三田キャンパス)
松平主殿頭中屋敷(江戸・明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(松平主殿頭中屋敷・慶応義塾三田キャンパス)
松平主殿頭中屋敷(江戸・平成)

5.深溝松平家下屋敷・抱屋敷・蔵屋敷の変遷

①深川下屋敷(1657~1672、丹波国福知山藩→第一次肥前国島原藩)
明曆3年(1657年)拝領。
寛文12年(1672年)返上。

②千代ヶ崎抱屋敷(1672~明治、第一次肥前国島原藩→下野国宇都宮藩→第二次肥前国島原藩)
第2章で後述する。

③渋谷下屋敷(1673頃~1725頃、第一次肥前国島原藩)
入手経緯等は不明だが、複数の時期の古地図にその存在が見られることから、延宝元年(1673年)から享保10年頃(1725年)までは渋谷下屋敷を構えていたことが判明している。

④田町蔵屋敷(1667~1720頃、丹波国福知山藩→第一次肥前国島原藩)
田町蔵屋敷は、寛文7年(1667年)、芝田町四丁目海側に購入。
通称「浜邸」と呼ばれていた田町蔵屋敷には、屋敷内に船で運ばれた荷物を置くための蔵が建てられていた。
享保5年(1720年)までの記録が残っているが、いつ頃失ったか定かではない。

⑤傳道抱屋敷
千代ヶ崎抱屋敷とは同一の領地ではなく、離れ(中目黒村傳道)にある。
弘化3年(1846年)、安政3年(1856年)の古地図には「抱屋敷」と示されている。
その前後の切絵図では見られない。
建設時期は不明。
第2章以降で後述する。

⑥泉水下屋敷(興慶園)(1694~1739、第一次肥前国島原藩)
元禄7年(1694年)、隠居用として国許の島原に置かれた下屋敷であり、興慶園と呼ばれた期間は元禄7年から同14年まで。廃止は元文4年(1739年)である。

⑦西日本に置かれた下屋敷
松原下屋敷(京都)、天満下屋敷(大阪)、淀屋橋下屋敷(大阪)、大黒町下屋敷(長崎)、景花園下屋敷(国許)の存在が判明している。

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【第2章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷

1.目黒にあった2箇所の抱屋敷

①千代ヶ崎抱屋敷
現在の品川区上大崎2丁目・目黒区目黒1丁目・三田2丁目各々の一部を含む一帯。
明治以降の小字でいうと、千代ケ崎と水道向が該当する。
千代ヶ崎抱屋敷が網羅した地域は
・三田村千代ヶ崎
・上大崎村永峯(正徳年間に町奉行支配「永峯町」となる)
②傳道抱屋敷
目黒区目黒1丁目13番の五角形の部分。
江戸時代の荏原郡中目黒村傳道。
※明治以降、時代に合わせて小字名を「傳道」(風土記より「村の中央より東へ寄れり、或云昔此地に道場ありし故此名ありとぞ」)から「田道」(何れも”でんどう”と読む)へと当て字で変更されている。
《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(松平主殿頭屋敷)
松平主殿守(江戸)
※「三田村 上大崎村 上下目黒村入会」は誤植であり「三田村 上大崎村 中下目黒村入会」が正しい。
※デジタル地図改訂版では「千代ヶ池」(千代ヶ池の絵)が加わっている。
※小名「千代ヶ崎」の位置は切絵図に従ったものと思われるが、茶屋坂を含むこの辺りの小名は「(中目黒村)味噌下」(『新編武蔵風土記稿』)である。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡中目黒村「小名 味噌下」
荏原郡中目黒村(味噌下)

2.4村入会

『新編武蔵風土記稿』荏原郡4村で登場する千代ヶ崎抱屋敷
以下『新編武蔵風土記稿』では、千代ヶ崎抱屋敷に係る記述を、次の4村の項で確認することができる。
荏原郡中目黒村(馬込領)
中目黒村
荏原郡下目黒村(馬込領)
下目黒村
荏原郡上大崎村(品川領)
上大崎村
荏原郡三田村(麻布領)
三田村

「入会地」とは、一般に、単一又は複数の村が共有地として、その山林原野を共同で管理した土地である。
そこから得た収益は、各々平等に振り分けられた。
入会地が藩有地ならば、村民は下草永等の小物成(年貢以外の雑税)を納めて使用収益した。
千代ヶ崎の藩邸は幕府拝領の「下屋敷」ではなく「抱屋敷」であった。
要するに、藩主が私費を投じて購入又は借用した抱地であって、その地位が大名であろうと、抱地は年貢の対象とされた。
加えて、中目黒村と、上大崎村、三田村からなる千代ヶ崎の領地は、元々、中目黒村、下目黒村、上大崎村、三田村4村がこの地の山林原野を入会地(共有地)という形式で共同利用してきた土地だった(藩邸内を通過した三田用水も入会の対象だったであろう)。
つまり、千代ヶ崎抱屋敷には、松平主殿頭の支配地の中に、4村との共有地が存在していた。
「藩主がその土地を取得後、元の地権者は立ち退きを余儀なくされる」又は「部外者が藩邸内を自由に出入りすることはできない」と思われがちだが、ここは抱地であるゆえ、藩主が土地を取得した後も、元々の地権者を継続して居住させ、年貢を納めることも可能であったし、地権者以外の者が自由に出入りすることができるエリアも存在した。
なお、享保2年10月「抱屋敷構之間取払申侠」によって、抱屋敷の長屋塀は取り払われている。

3.江戸幕府による目黒砲薬製造所稼働と千代ヶ崎抱屋敷の領域縮小

千代ヶ崎抱屋敷(1672~明治、第一次肥前国島原藩→下野国宇都宮藩→第二次肥前国島原藩)
『深溝世紀』巻七-寛文12年12月条「因老中板倉内膳正重矩、請買目黒長峰之地為別墅、報可」(原文侭)により、寛文12年(1672年)に永峯の地を購入したことがわかる。
2万坪に及ぶ広大な敷地の中に御茶屋を点在させ、地勢を生かした眺望のよい遊興のための施設として使用したことが、文化12年(1815年)頃の屋敷の様相を記した『東京市史稿』遊園篇第三所収「遊歴雑記」(1929年東京市役所)から窺い知ることができる。
従って、千代ヶ崎邸は下屋敷として使用したのだろう。
明治2年発行『東京御絵図』(官版)に「元松平トノモ」とあることから、千代ヶ崎抱屋敷は明治に入ったあとも存続していたことがわかる。
ただし、この地図を見る限り、千代ヶ崎抱屋敷の北側(千代ヶ池を含む)が領地から喪失し、元の領域の半分以下に縮小されているように見える。
安政4年(1857年)、幕府は軍事力増強のため、現在の防衛省目黒地区(目黒区中目黒2-2)に、目黒砲薬製造所を建設した。
《資料》明治2年東京御絵図(官版)
明治2年東京御絵図(官版)
明治政府になってから、新たに小字名”水道向”と名付けられた元千代ヶ崎抱屋敷の領域。
三田用水銭瓶窪口付近(現日の丸自動車教習所)と、その向かい側(元千代ヶ崎抱屋敷に三田用水が注ぎ込むエリア)には、火薬製造に必要な動力を得る目的で水車場が作られた。
そして、明治13年、幕府の目黒砲薬製造所跡地に目黒火薬製造所が完成するまでの間、稼働していたことが『東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件』(明治12年)でわかる。
東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件
東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件
ここで補足がある(2019/6/7update)
最後の肥前国島原藩主である松平主殿頭忠和(1851~1917、嘉永4年~大正6年)は江戸幕府第15代将軍徳川慶喜公の異母弟であった。
元々、常陸国水戸藩主徳川斉昭の十六男であったが、文久2年(1862)、島原藩の養子となってその家督を継いだ。
文久3年(1863)、海防強化の必要性から軍制改革を断行し、元治元年(1864)・慶応2年(1866)の2回の長州征討には、江戸幕府方として出兵している。
かくして、幕府方として軍制改革に力を入れていたことからもわかるように、千代ヶ崎抱屋敷の領地を軍用に提供したのだろう。
明治2年(1869)、版籍奉還で島原知藩事に就任、明治4年(1871)廃藩置県で知藩事を免官。
明治7年(1874)には東照宮宮司となった。
明治法律学校(現在の明治大学)の有力な後援者となり、明治14年(1881)、数寄屋橋の邸宅(旧数寄屋橋上屋敷)の一角を同校の校舎として提供した。
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4.目黒火薬製造所「火薬運搬軌道」の遺構

明治40年前後の古地図より、目黒火薬製造所から線路のようなものが横断していることがわかる。
《資料》明治40年前後復元地図(火薬運搬軌道)
海軍火薬製造所①(明治)
:次の重ね地図を参考にして、自然教育園まで延伸する火薬運搬軌道跡地に実際に足を運んだ。
《資料》明治・平成15年重ね地図(目黒火薬製造所・火薬運搬軌道)
海軍火薬製造所①(明治・平成)
新旧茶屋坂の頂上より撮影。
右手が防衛省目黒地区。
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小学校から高校まで交流していた友人が住んでいた。
中学では区内の学区分けで、お隣の目黒二中に行ってしまったが、高校の頃にバッタリ会ってから、交流が再開した。
彼は、早々と高校を中退し、東京大学に合格。
すげえ奴だった。
当時の防衛庁社宅にもよく遊びに来たことを思い出した。
そして、ここが軌道のスタート地点である。
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遺構を探すため、軌道跡地の細道を進む。
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本日現在、残された遺構はここのみだった。
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目黒区三田2-5-22(目黒区三田防災街づくり会館の対向)にて、軍用地境界標が埋もれており、かろうじて「陸軍」という碑のみが顔を出していた。
※明治26年、海軍省から陸軍東京砲兵工廠の管理下へ
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5.千代ヶ池

①千代ヶ池の位置
千代ヶ崎(目黒区三田2-10-31三田公園)
JR目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向かう目黒川沿いの台地は、かつて「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前国島原藩主松平主殿頭の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かつて「千代が池」という池がありました。これは南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投じた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来といれています。
平成22年3月 目黒区教育委員会
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案内板の補足事項が2つ。
まず、小名「千代ヶ崎」は、江戸時代には「荏原郡三田村」の小字名であったが、明治期には、行政区分上、JR目黒駅・恵比寿駅区間の西側のうち、現在の品川区上大崎2丁目に該当する地域がそう呼ばれた。
その昔「上大崎村永峯」と呼ばれたエリアを含んでいる。
また、千代ヶ崎抱屋敷のうち上大崎2丁目以外のエリア(三田2丁目・目黒1丁目)の小字名は水道向とされた。
《資料》昭和5年 東京府荏原郡目黒町全図目黒地区(川流堂 小林又七発行)
昭和5年目黒区地図
以下、風土記中「松平主殿頭忠侯抱屋敷の邊を云」。
その他には、千代ヶ池の由緒が記されている。
※松平忠侯の藩主在位は文政2年(1819年)~天保11年(1840年)。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国麻布領荏原郡三田村「小名 千代ヶ崎」
三田村(小名)

《資料》明治40年前後復元地図(千代ヶ崎)
松平主殿頭(明治)

《資料》明治・平成15年重ね地図(千代ヶ崎)
松平主殿頭(明治・平成)
補足の2つ目
三田公園の目黒区教育委員会の案内板にある『江戸名所図会』(1834~1836)より、絵師長谷川雪旦の挿絵を紹介する。
挿絵のキャプションを書き起こした。
キャプションの背後には富士山が描かれている。
==========
千代ヶ崎
「行人坂の北、永峯松平主殿侯別荘の後ろ、中目黒の方へ少し下がる処なり。初(はじめ)槍ヶ崎といひしを、後に千代ヶ崎と改められしといふ。 主殿侯構ひの旧跡にて池の傍らに衣掛け松といふ或は、新田義興の室、義興矢口の渡しにて最後のこと聞きかなしみに絶えず、 この池に身を投ぐるといへり。絶景観といへるもこの別荘の号なりとぞ。」
《資料》長谷川雪旦「千代ヶ崎」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
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上大崎村永峯は、正徳年間(1711~1716)に町奉行支配(墨引)の小名「永峯町」(冠名は白金)となった結果、「永峯」という小名はなくなり、そのエリアも確定された(千代ヶ崎抱屋敷の領地は朱引=代官の管轄下に置かれた)。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国荏原郡品川領上大崎村「小名 永峯町」
上大崎村(永峯町)
権之助坂(永峯町)と行人坂(中目黒町)の間の地域並びに目黒通り沿いJR目黒駅東口両側には永峯町の町屋が並んでいた。
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三田公園は、千代ヶ崎抱屋敷の東の最北端(公園内の田道住区センター三田分室が境界線=左手の建物)に位置していた。
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「千代ヶ池」のあったところには、現在、目黒台マンション(目黒区目黒1-1-16、昭和43年9月竣工)が建っている。
三田用水は銭瓶窪口(日の丸自動車教習所敷地内)から分水され(白金分水路)、北東側の高台から千代ヶ崎抱屋敷の中を下り、千代ヶ池の外周を北回りして抱屋敷の外に流れ出て、3つに枝分かれして中目黒村(中・下目黒村入会)(目黒区目黒1丁目)の水田地帯に入っていった。
目黒台マンションに行くと、スロープ状に急カーブする三田用水の傾斜(暗渠)が、隣接地との境界線として、そしてマンション駐車場の通行路として残っている。
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②「目黒千代ヶ池」(浮世絵師 初代歌川広重)
広重の浮世絵
千代ヶ崎抱屋敷にあった千代ヶ池には、三田用水からの引水が三段に折れて落ちる滝があったという。
この浮世絵は富士山を背にして描いた作品である。
《資料》初代歌川広重「目黒千代ヶ池」(名所江戸百景)
歌川広重「目黒千代ヶ池」(名所江戸百景)
広重の錦絵で描かれた千代ヶ池。
「この書前編に千代ヶ崎の真景を図したれど、紙中隘くて池に及ばず。故に今またその池の図を増補して出すのみ」
《資料》初代歌川広重「目黒千代ヶ池」(絵本江戸土産)
歌川広重「目黒千代ヶ池」(絵本江戸土産)②

歌川広重「目黒千代ヶ池」(絵本江戸土産)

こちらは広重の錦絵。
長谷川雪旦と同一の方角(西)、三田用水が通過する高台からスケッチしている。
《資料》初代歌川広重「千代ヶ崎風景(下)」(絵本江戸土産)
歌川広重「千代ヶ崎風景(下)」(絵本江戸土産)

6.切支丹灯籠

①大鳥神社所蔵「切支丹灯籠」
大鳥神社(目黒区下目黒3-1-2)
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以下、大鳥神社所蔵キリシタン灯籠の説明書を転載する。
==========
切支丹灯籠
下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。
もとは千代が崎(現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前国島原藩主松平主殿頭の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。
==========
※「下屋敷」は間違いであり「抱屋敷」が正しい。下屋敷は幕府拝領、抱屋敷は自腹で購入した領地であり年貢などの対象である。性質が全く違うのだ。
なお、千代ヶ崎抱屋敷は遊興に使用したことから、用途は下屋敷であったと推定されている。
※「東京都教職員研修センター」は、現在「警視庁目黒合同庁舎」となっている。かつて千代ヶ池のあった目黒台マンションの坂上に隣接している。
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警視庁目黒合同庁舎(目黒区目黒1-1-14)
東京都教職員研修センターの前進であった都立研究所時代、小学校の社会科見学で建物に入りプラネタリウムを見たことを懐かしく思う。
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案内板の説明から、キリシタン灯籠が発見されたのは、かつて千代ヶ崎抱屋敷内の別荘「絶景観」や千代ヶ池周辺と考えられる。
なお、松平主殿家が最初に肥前国島原藩に転封されたのは1668年であり、千代ヶ崎の土地を購入したのは1672年である。
従って、「島原の乱(1637~38)」を含む「寛永・正保・慶安(1624~52)」の時代には、松平主殿家と島原の接点はなかった。
千代ヶ池周辺で見つかったキリシタン灯籠がこの頃の作品であるなら、既製の灯籠を調達したと考えるのが妥当だろう。
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②大聖院所蔵「切支丹灯籠」
大鳥神社別当寺大聖院(目黒区下目黒3-1-3)
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大鳥神社別当寺の大聖院も、松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷で発見されたキリシタン灯籠を所蔵している。
その案内板には次のように説明されている。
==========
切支丹灯籠
この3基の灯籠は、切支丹灯籠とか織部式灯籠と呼ばれています。もと、三田千代が崎の旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷(後の大村伯邸)林泉中の小祠内にありましたが、大正15年10月大聖院に移したものです。
中央のもっとも高い1基の棹石には変形T字クルスとキリスト像とおもわれる形状が、また左右面に、漢詩が刻まれています。
この灯籠は徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物として秘そかに置かれていたものだと言われています。
歴史的に文化的価値が高く、全国的にも数少ない灯籠です。
平成4年3月 目黒区教育委員会
==========
※「下屋敷」と説明されているが、大鳥神社所蔵同様ではなく「抱屋敷」である。
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【第3章】目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯

1.江戸の6大飲用水と三田用水の成立

①江戸の6大飲用水
神田上水 寛永6年(1629年)開設
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玉川上水 承応3年(1654年)開設
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亀有上水 万治2年(1659年)開設→享保7年(1722年)廃止
青山上水 万治3年(1660年)開設→享保7年(1722年)廃止
三田上水 寛文4年(1664年)開設→享保7年(1722年)廃止
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千川上水 元禄9年(1696年)開設→享保7年(1722年)廃止
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※下4つは玉川上水からの分水

②三田用水の成立
新井白石に推挙されて江戸の儒学者となり、第8代将軍徳川吉宗の側近として「享保の改革」を補佐した室鳩巣の建議(「江戸の大火の原因が上水によるもの」という、到底あり得ないような理由)が幕府に採用され、神田上水・玉川上水以外の4上水が廃止された。
真の廃止理由については諸説あるようだが、これまで三田上水の余水を灌漑に使用したきた農民が関東郡代・伊奈半左衛門に嘆願した結果、享保9年(1724年)、農業用水としての再使用を許可され三田用水ができた。
写真は玉川上水の笹塚橋から撮影した「三田用水取水口跡」(世田谷区北沢5-34と渋谷区笹塚1-15の間)である。

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三田用水は、玉川上水が枯渇すると取水制限がかけられたため、14村で結成された三田用水の水利組合は、村同士で水の争奪戦が起こらないよう「番水約定」を定め、用水の利用について、利用順序を決める等、各村の取水の公平性を担保した。
千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水は、銭瓶窪口(現在の日の丸自動車教習所の敷地内)で分水された水であった。
この分水路を白金分水路という。
白金分水の流路は、白金方面(東側)に流れた時代、千代ヶ崎抱屋敷を通過し目黒川(西側)に流れた時代、再び白金方面に流れた時代、以上3期に分けて利用されていた。

③銭瓶窪口跡
日の丸自動車教習所のちょうどこの辺りにあった。
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千代ヶ崎抱屋敷内には、この辺りから流れ込んだ。
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④三田用水跡の碑(目黒区三田1-6-27)
目黒三田通り沿い日の丸自動車教習所前。
かつて銭瓶窪口が設置されていた付近には、三田用水跡の碑と礎石が設置されている。
目黒三田通りを挟み、千代ヶ崎抱屋敷の最北端の東側(三田公園)の対向にある。

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以下、案内板を転載しておく
==========
かつてこの地を流れていた三田用水は、寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしています。この上水は、三田、芝、金杉方面の飲料水とするため、玉川上水を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したものです。
享保7年(1722)8代将軍吉宗は、室鳩巣の上水が火事の原因になるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止しました。しかし、三田、上目黒、中目黒、下目黒の目黒4ヶ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代に出され、享保9年(1724)に農業用の三田用水として再開されました。
以後、三田用水は豪農等で組織された用水組合により管理されました。
農業の他に水路が淀橋台と呼ばれる大地上を通るので、大正末頃まで台地の下に水車を設置した製粉・精米にもさかんに利用されました。また、明治末頃からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられました。
戦後は急速な都市化により水質も悪化し、わずかにビール工場の洗浄用水などとして、細々と用いられていましたが、それも不要となり、昭和50年(1975)にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じました。
下の石は三田用水の木樋(もくひ)の下に設置された礎石(そせき)です。
平蔵9年3月 目黒区教育委員会
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⑤三田用水普通水利組合跡(品川区上大崎2-17-3)
目黒三田通り沿い、JR目黒駅西口の近くにある東急ストアの対向に三角の形をした建物がある。
かつての「三田用水普通水利組合」跡である。
三田用水は民間の所有権に属したので、組合が解散すると、土地は売却され、その後埋め立てられ、跡地には、道路や建物が作られた。
なお、組合の建物は千代ヶ崎抱屋敷の東南側に位置する。
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対向から撮影。
「はんこ屋さん21」がテナントに入っているビルが三角の形をしたビルである。
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2.目黒1丁目の三田用水

①上空地図を使った千代ヶ崎抱屋敷と三田用水等のエリアマップ
千代ヶ崎周辺のGoogleマップ上空地図に印をつけた。
《資料》松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡上空地図
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:明治期までの古地図で拾えなかった三田用水暗渠(現地確認した暗渠)
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲は不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
《資料》松平主殿頭抱屋敷と三田用水上空地図
松平主殿頭上空地図
上空地図を分かりやすくするように、安政3年・平成15年の重ね地図を付しておく。
《資料》安政3年・平成15年重ね地図(松平主殿頭抱屋敷)
松平主殿頭(江戸・平成)

②千代ヶ崎抱屋敷西の最北端(目黒区三田2-10-47 対向住所は目黒1-12)
千代ヶ崎抱屋敷の最北端は三田用水白金分水が境界線となった。三田用水は抱屋敷最北端の境界線に沿うように、古道と並走して、東(三田公園=東の最北端)の高台からから西(次の画像=西の最北端)の低地へと流れていた。
なお、古道は、現在、三田公園を出たところで一時中断し、その後、階段となって西に下って行く。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』には、当該古道が登場するシーンがある。
同時に、当該古道の現在についても、合わせて画像を付しておく。

『鬼平犯科帳18』「俄か雨」(池波正太郎 文春文庫)
「長谷川平蔵は、久しぶりに、その眺望をたのしむために千代ヶ崎に向かったのだが、松平主殿頭(肥前・島原七万石)下屋敷の北側の道を歩むうちにも、雲行きが怪しくなってきた。」
※「下屋敷」は「抱屋敷」の間違い
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古道は、抱屋敷西の最北端を越えたところで、民家が建ち並んで断絶している(目黒区目黒1-12)。
古道は、江戸時代、三田用水ともに、住宅を突っ切って、五角形をなした傳道抱屋敷の真横を通過した。
古道を潰した代替の迂回路は、次の画像の真ん中の道路を右に直進するルートである。
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上記画像の反対側。
ここが抱屋敷西の最北端にあたる。
傾斜が激しかったので、階段にしたのだろう。
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上2つの地点を横から撮影。
右手階段の手前の斜面にある景観は現存する数少ない遺構である(目黒区三田2-10-47目黒三田社宅前)。
昭和40年代前半のマンション建設ラッシュ後も生き残った遺構は、バブルによるマンション建設がトドメとなり、壊滅的な被害を受けた。
当時は斜面は丘になっており、木々と芝生の中に、ポツン、ポツンと民家が建っていた。
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こんな感じだ。
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③千代ヶ崎抱屋敷西の最北端を通過した三田用水その1~旧茶屋坂下に至る三田用水暗渠
写真の三田用水の暗渠は、目黒区三田2-18-4(クローバーヒルズ)と2-18-12の間を撮影したもの。
迂回路の突き当たり地点。
暗渠を挟んで右手は明治時代、射撃場として利用された。
なお、この暗渠は旧茶屋坂下「清水の碑」のある茶屋坂街かど公園(三田2-15-15)の手前に至り終点する(途中から三田用水の上には建物が並び、暗渠の遺構は途絶える)。
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射撃場跡地の現在。
中心には茶屋坂に至るメインストリートが開削され、両サイドには民家が並ぶ閑静な高級住宅地となっている。
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④千代ヶ崎抱屋敷西の最北端を通過した三田用水その2~傳道抱屋敷に沿って通過する三田用水(目黒区目黒1-13)
正面奥は傳道抱屋敷の五角形の頂点(目黒区目黒1-12-1とクローバーヒルズの間の道を撮影)。
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五角形を成した傳道抱屋敷の頂点で撮影。
ここで迂回路は終わり、旧道に再接続する。
田道(でんどう)小学校に通っている頃から、この「五角形の曲輪」が周囲の景観と溶け込まず、陸の孤島のごとき異質な空間だった。
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旧道と三田用水の暗渠
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傳道抱屋敷東側に沿って三田用水が走る。
抱屋敷のお堀のようだ。
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上の画像の道は通行不能。
別の道から反対側に出て撮影。
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左の煉瓦色のマンションの庭部分(フェンス内)が暗渠箇所。
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終点は目黒川ふれあい橋。
この橋は、目黒区民センターに行きやすくするよう、近年、新たに追加された橋である。
この橋の建設によって暗渠の跡がわからなくなってしまった。
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⑤千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水の暗渠化
既報の上空地図をご覧になればわかるように、千代ヶ崎抱屋敷と目黒川(目黒新橋から田道橋)を挟む低地の平坦な土地一帯は、三田用水が碁盤の目のように張り巡らされていた。
このエリアには水田が広がっていた。
三田用水について、明治40年前後の古地図で拾えなかった暗渠も存在している。
目黒区における三田用水暗渠の管轄は文化財課であることがわかったので、都営住宅周辺の暗渠はいつ頃に行われたか質問したところ「わかったら連絡します」と返答された。
寝惚けたことを言っているので「わかったら?いや、あなたが調べる気があるかどうかかの問題でしょ?そもそも文化財担当なのに、資料がどこにあるかくらい把握してないの?」とやり返した。
(2019/4/23問い合わせ→5/21現在レスポンスなし)
資料の在りかを把握してもいないし、郷土についてもろくに勉強していない。
これは、目黒に限らず、板橋、練馬、豊島、新宿、どの役所も同類項。
街の歴史の案内板に誤りがあることもざらにある。
こんな無能で不勉強なバカどもが、区民の税金で建てられたお洒落なインテリジェントビルに勤務し、ムダなことで税金を浪費し、当該税金で飯を食う。
公務員は、国、地方ともに、郷土、自然(木々や地形)を破壊することが専門だからね。
さて、目黒一丁目アパート(目黒区目黒1-19~21)は昭和41年から昭和44年にかけて建設された。
千代ヶ崎抱屋敷の丘(地形)を破壊して建てられたマンション(旧三共マンション、旧景観荘、マンション目黒苑、パレス三條、ジャンポール目黒第二、パピヨン目黒、マンション西目黒苑)も、昭和47年までに建てられた(ただし、昭和40年前半に集中している。なお、高級マンションはバブル期を中心に建てられた)。
これら集合住宅の建設時期と時代背景から、やはり昭和39年の東京オリンピックと第二次ベビーブームを境に、都営住宅周辺を流れていた三田用水は暗渠し、マンション建設が進んだものと思われる(事実がわかり次第、記事を更新する)。
次の⑤~⑦では、千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水について、3つにバイパスしたので、3項目に分けて暗渠画像をアップロードしていく。
なお、前提として、三田用水はこの地点で千代ヶ崎抱屋敷を抜けて、3箇所から目黒1丁目の平地(低地)に広がる水田に注がれた。
明治期の小字名は「上耕地」。
松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒川に挟まれた一帯である。
画像左は目黒台マンションである。
三田用水はこの付近から千代ヶ崎抱屋敷を抜けた。
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⑥千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその1(目黒1-10-13と1-9-1の間)
千代ヶ崎抱屋敷を抜けた三田用水が一直線で目黒1丁目に進入する流路。
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交差する左右の細い道は、次項⑥で紹介する進入経路をもつ水路(左はグリーンのシート部分が暗渠箇所)。
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暗渠した狭隘な道を抜けると、土地は開けて、都営住宅が広がる。
ここで、右のグリーンベルトと、左の都営住宅方面(暗渠箇所は都営住宅前の芝生)に分岐する。
グリーンベルトに萌え萌え!
発見してワクワクしちゃって。
右のグリーンベルトが三田用水の暗渠だなんて、目黒在住中は全然知らなかった。
勿論、今のように、暗渠に関して場数も踏んでいなかったので、気付きもしなかった。
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反対側(グリーンベルト側)から、狭隘な暗渠道側を撮影。
なお、写真正面奥の赤い自動車の辺りが、次項⑥で紹介する別の進入経路をもつ暗渠エリア。
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グリーンベルト!(目黒1-18と1-20の間)
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グリーンベルトを直進すると、植え込みが途絶えて、アスファルトの細長い暗渠道に至る。
柵が設けられている。
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直進していくと、直進する暗渠と、斜めの暗渠(目黒1-17-5前)の2つに分岐する。斜めの暗渠はフェンスで立入禁止にしている。
斜めの暗渠の方が古い。
明治時代の古地図から読み取れるのは、いつかの時点で、斜めの水路を潰して、直進に切り替えたようだ。
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斜めの暗渠
裏から回って撮影。
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斜めの暗渠は写真のように目黒川方面へ。
暗渠箇所にはコンクリート蓋がしてある。
この暗渠は、傳道抱屋敷の横を通り抜けた水路と合流して、目黒川(ふれあい橋)に至る。
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⑦千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその2(目黒1-10住宅地内)
この進入経路は、最も詳細だった郵便地図を含めて、明治40年前後の地図には表示されていない。
民家の狭い門が三田用水の入口である。
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前項⑤の暗渠と狭隘な道でクロスする。
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クロスして左の方に抜ける。
暗渠箇所はグリーンシートの部分。
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上の写真の反対側から撮影。
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この暗渠は、都営目黒一丁目アパート1号棟(目黒1-21-1)の歩道に接続し、3号棟歩道→5号棟の歩道を経由して目黒川に至る。
写真は1号棟の合流地点。
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1号棟から3号棟への接続地点。
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3号棟前
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暗渠は目黒1-22-10と1-23-15の間を通過し目黒川に至る。
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2号棟・4号棟と3号棟・5号棟の間を通る暗渠を撮影し忘れた(笑)
エネオスの横の暗渠に至り目黒川へ。
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⑧千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその3(目黒1-9-6マンション西目黒苑 対向1-5-1)
マンション西目黒苑。
幼少期からの友人が住んでいる。
三田用水は向こうから流れてきて左折する
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当初、坂道が暗渠と勘違いした。
道路部分を動画撮影中、マンションのガーデニング(グリーンベルト)に違和感を覚えた。
「まさか、このグリーンベルトの下かよ!」
見落とすところだった!(汗)
昔から三田用水の暗渠なんて考えついたこともない!
このポスト、よく使ったなあ。
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暗渠はグリーンベルト沿いに直進するルートと、直ぐに左折するルート(目黒日大方面)に枝分かれする。

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左折して目黒1-5-36と1-8-1の間の暗渠へ。
この周辺は昔から湿地帯のようなエリアで、住みやすい場所ではない。
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当時、この家の付近から湧水が出ていたと記憶している。
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右折する。
写真は右折後、真っ直ぐ目黒方面に向かう暗渠道を高台、地元の友人(ホテル東横の御曹司)の家の前から撮影。
道の左手はバブル期までは砂利でしめた空き地だった。
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降りて直進。
目黒1-6-26付近
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交差点に出る
暗渠は右手の道(目黒1-23-6と1-23-7の間の右手)に進む。
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道路を渡り、目黒川沿いの暗渠へ。
目黒1-24-9と1-24-12(オリックス目黒ビル)の間。
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マンション西目黒苑のグリーンベルトに戻る。
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グリーンベルトを直進し、目黒東児童遊園(目黒1-9-15)の手前。
三田用水の暗渠の蓋は古いまま、敷地の前面にあるため、地権者の占有地になっているようだ。
木製の板材を使っている。
朽ちた板の下は下水道の用に供しているのだろうか。
※敷地の前面が道路と接しておらず、水路になっているケースは、原則として建築基準法違反となる。回避する方法は、役所から占有許可を得る方法、敷地から代替地を割譲し水路と交換する方法、基準を満たした橋を作って敷地と道路の間に架ける方法などがある。
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暗渠は目黒東児童遊園のグリーンベルトに繋がる。
子供の頃、靴飛ばしや庭球をして遊んだとても懐かしい公園。
まさか、公園の敷居の下に暗渠しているとは。
なお、児童遊園の対向にある目黒保育園(写真左手)もまた広大な空き地だった。
地権者が田んぼを砂利でしめて放置していたのでしょうか?(立入禁止エリアだった)
都営住宅の一角から移転した?
何れにせよ、バブル以後に建物が作られたと記憶している。
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暗渠は目黒1-22-3と1-23-1の間の道に直進する。
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直進して児童遊園側(反対から)を撮影。
目黒1-22-7と1-23-15の間
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道路を渡り、暗渠は目黒川沿いの建物の間を通過。
目黒1-24-6と1-24-9(タワーマンション)の間。
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最後に、大正8年に日の出女子学園(目黒日大)が移転してくる前、学園の敷地の中を通過した三田用水が道路を渡り、目黒川沿いの建物の間を暗渠している場所は立入禁止となっているようだ。
オリックス目黒ビルと目黒新橋マンション(目黒1-24-19)の間。
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【第4章】三條實美と久米邦武~元肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷領地の一角に在住した有力者たち

1.公家出身”梨号”三條實美とパレス三條の碑

三條實美は公家出身の政治家。太政大臣を経て、内大臣のときに、黒田内閣総辞職に際して、2ヶ月間、内閣総理大臣を兼任した(臨時内閣だったため、歴代の内閣総理大臣の中に名を連ねていない)。
天保8年2月7日生、明治24年2月18日55歳没。
葬儀は国葬で行われた。
爵位は「公爵」。
三条実美
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三條坂の中腹にある「パレス三條」(昭和44年1月竣工)の入口には、昔から、とある碑文(目黒区目黒1-2-7パレス三條)が建っていた。
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自家君梨堂公即卋三年於慈美不肖公美爾
閲遺書獲此文於故紙中筆塗抹勲竄而手筆
所草不敢改一字建石奉物以傳卋後云
明治二十六年三月 公美拜識
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碑文下段1行目「梨堂」とは三條實美の雅号(別名「梨木誠斎」)である。
実美の遺書の中で「勲」という一字が筆で塗り潰されていたが、敢えて訂正しないで、石碑で後世に伝えていくということだろうか。
なお、上段は恐らく遺書をありのままに転記したのだろうが、何と彫られているやらさっぱり読めない(;´д`)
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坂の頂上の三條實美邸宅跡にはホテルが建っている(品川区上大崎2-23-7)。元の名称は「ホテル三條苑」であったが、現在は経営者が在日朝鮮人の女性に代わり「ホテルプリンセスガーデン」に改称されている。世間にはメディアを通じて、黒い噂ばかりが出回っている。
当たり前のことだが、こちらには三條實美の記念碑はない。
私的には、旧三條邸という事実だけがホテルの宿泊勧誘に利用されているに過ぎず、遺構としての価値はゼロと思う。
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2.『神道ハ祭天ノ古俗』”易堂”久米邦武

久米邦武は肥前佐賀藩士出身であり、近代日本の歴史学の先駆者。
雅号は「易堂」
天保10年7月11日生、昭和6年2月24日没(享年91歳)。
三條實美とは僅か2歳違いでした。。。
しかも、公家出身の三條實美とは対極にいる人物。
久米邦武
久米邦武は、特命全権大使岩倉使節団の一員として1年9ヶ月に及ぶ海外視察を通じて、『特命全権大使 米欧回覧実記』全100巻を編集し、政府から報奨金500円を受け取った(明治時代の1円の価値を現代に換算すると3,800円程度の価額になる)。
久米邦武は、報奨金の一部を軍資金にして、江戸時代に千代ヶ崎抱屋敷に属していた土地のうち南側の部分を購入した。
なお、彼は明治25年に田口卯吉が主宰する『史海』に転載した論文『神道ハ祭天ノ古俗』の内容(要約すれば「神道は教条的な宗教ではなく自然崇拝に属する習俗に過ぎない」という解釈)が、当時、神道の国教化を画策していた神祇官から糾弾され(久米邦武筆禍事件)、帝国大学教授を辞職している(神仏分離令を発令して廃仏毀釈を主導したのは神祇官だった)。
現在、目黒駅西口には久米ビル(品川区上大崎2-25-5)という名の建物があり、プライベート美術館である久米美術館が所在している。
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一方通行の目黒通りのバイパスも久米邦武のお屋敷の一部だった。
右が久米ビル。
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権之助坂商店街。
左手にあるエイブルがテナントのビルと、その右隣のビルの間には、起伏のある謎の抜け道があった。
千代ヶ崎抱屋敷の西の最南端にあたる。
旧久米邸宅も同様。
10代の頃まで、左手は創業者時代のらーめん田丸、右隣は古本屋だった。
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【第5章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂

1.千代ヶ崎抱屋敷南側境界線の権之助坂

①由来
行人坂が急勾配なので、新たに緩やかな坂として開かれた権之助坂(上大崎村永峯町)は、ちょうど、松永主殿頭抱屋敷の南端に沿っていた。
《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸)

《資料》明治40年前後実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸・平成)

《資料》明治・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治・平成)

権之助坂の由緒には幾つかの伝承がある。
A)名主の菅沼権之助が許可なく作った坂(その咎で死罪とされた)
B)盗賊の権之助が処刑される前に、この坂の頂上から家を見返ったその坂
C)名主の菅沼権之助が年貢米の取り立てを緩めてもらおうと直訴したことが罪に問われ、処刑される前に、この坂の頂上から最後にひと目我が家が見たいと願い出たその坂
私と同じ目黒出身の南天本店(椎名町駅前)オーナーによれば、同級生に菅沼権之助の子孫がいて、子孫の方及び下目黒小学校の社会科の授業においても「Cが正しい」と教えている。私の出身校(田道小学校)では権之助坂の名の由来は教わらなかった。
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なお、権之助坂は、その開通前に「目黒道」との接続道路(二子道)だった行人坂に対して「新坂」と呼ばれ、坂を下ったところにできた橋は、太鼓橋に対して「新橋(目黒新橋)」と呼ばれた。
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②放射3号支線開通
昭和43年、権之助坂商店街を貫通して、もと久米邸の敷地(明治初期までは松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷の南端)に、放射3号支線が開通し、従来の権之助坂は、一方通行下り車線のみとなった。
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★昭和30年代に撮影された貫通前の写真と、昭和43年放射3号支線開通直前に撮影された写真を、次のリンクより確認することができる。

昭和30年代の権之助坂商店街
このまちアーカイブス(目黒・大崎)

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ほぼ同じ場所から撮影(2015/4/28)
「このまちアーカイブス(目黒・大崎)」を見てから撮影したわけではない。
数年後、同じ場所(古本屋前)から撮影した画像もある。
人が権之助坂を伝えるのに最適な撮影スポットなのでしょう。
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昭和43年放射3号支線開通間近の権之助坂商店街
めぐろ歴史資料館2

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2.金毘羅坂(廃仏毀釈運動の犠牲になった金毘羅大権現社・別当寺曹洞宗鳳林山傳燈院高幢寺)

①由来
金毘羅坂は、目黒通り沿い大鳥神社方面に下る坂をいう。
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かつて下目黒村小瀧(現在の目黒区目黒3-11~14付近)にあった金毘羅大権現(別当寺曹洞宗鳳林山傳燈院高幢寺)を由来としている。
ところで、目黒区が建てた碑に違和感がある。
方角の説明がおかしい。
目黒駅方面を「北」に見据えているが「東」である。
従って、金毘羅権現社が「北」、元競馬場が「南」。
区の設置した案内板の訂正を、先程から何度していることか・・・
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②金毘羅大権現社
麦打歌に歌われた「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」
大鳥は大鳥神社、不動は目黒不動、金毘羅は高幢寺が管理した金比羅大権現社のことである。

長谷川雪旦の挿絵「 金毘羅社(こんぴらのやしろ)」
左上「表門」、中央下「裏門」。
裏門の階段を上がり右に「かぐら所」「釈迦」「地蔵」の順に進むと「拝殿」があり、その後ろが「本社」(一番右)がある。
拝殿の左が「高幢寺」。
《資料》長谷川雪旦「金毘羅社」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
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③廃寺
神道国教化を推進する政府の神佛分離令(慶応4年)と大教宣布(明治3年)によって廃仏毀釈運動が起こり、仏教弾圧が行われた結果、多くの寺院、仏像、経卷など貴重な日本の文化財が破壊され、寺社領上知令によって境内以外の寺社地が没収された。
高幢寺も薩摩藩主島津家の庇護を離れ、明治32年に廃寺となった。
写真はかつて境内があったエリア
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《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡下目黒村「金毘羅大権現・別当寺高幢寺」
下目黒村③

下目黒村④
○高幢寺
境内年貢地一万坪。村の北によりてあり。
曹洞宗山城國宇治田原禪定寺末、鳳林山傳燈院と號す。
昔、當所、鳳林庵といへる庵室ありしが正徳年中、高峯和尚と云もの此庵に住せり。
その頃、神奈川宿金蔵院の境内に傳燈院高幢寺といへる廃寺あり。
高峰それをここにうつし、庵を改め一宇の寺院とす。故に庵號を以て山號とす。
高峰、俗姓は源、氏は大田、名資尊、圖書資頼が子なり。
貞享二年正月二十八日、年十一にして薙染し加州大乘寺に入て參禪し、後諸國を遍歴す。
高峰嘗て金毘羅を信じて一堂を起立すべき志あり。年を歴ていよいよ志あつかりける。
後、此處に来り其願を遂たり。依て終焉の地と定めこの構營あり。
又、大岡越前守、寺社奉行たりし頃、七堂伽藍建立の願も許されしかと、未造立のことに及ばずして寛延三年七月十九日、八十二歳にして入寂す。

金毘羅權現社
境内にあり、三間に七間、幣殿三間四方、拝殿七間に三間、向拝三間四方、東に向う。
金毘羅權現の五字を扁す。神像は木像、作知れず。長一尺五寸。
祭禮年々十月十日、神樂を奏す。
御城鎭護の神と仰ぎ、九條家より鎭護社の三字を賜はり、今寺に納む。
又、辨天の像あり、長五寸餘、厨子の中に安じて堂中にあり。神奈川高幢寺に傳へし舊物なり。寺傳に云、高峯常に此の辨天を信ず。一日坐禪の間、一睡を催す。
時に霊夢を蒙り、多年の応願成就の期至れり、その證として一銭を賜るとみて、夢さめたり。
高峯、奇異の思をなし、懐中を探るに果して一銭を得たり。高峯歡喜浅からず。
程なく當社を建立しける後、錢をば錢婆神と崇め今に社壇に安ずと云う。

地藏堂
表門を入て左にあり。一間に九尺、木像立像長三尺、空海の作、地藏を本尊とす。

本地堂
表門を入て右にあり。三間半に二間半。金毘羅の本地正觀音の木像を安ず。長一尺許、岩石の上に踞す。此餘、釋迦、及び十六羅漢、摩訶迦葉、達摩の諸像を安置す。

首尾辨天勝利大黑正一位小瀧稻荷合社
裏門の内石階の下にあり。二間に二間半。神體は何も木像なり。社前に鳥居を立、爾柱間六尺。

曾根松
根の廻、二圃許。

難波梅
古木は枯てなし。跡へ同種の木を植てあり。
此の二本の由来、詳ならざれ共、當地の名木と称して世人もてはやせり。何れも本地堂後林中にあり。

石鳥居
爾柱の間九尺

中門
鳥居の外にあり。柱間二間許。

石鳥居
中門の外にあり。柱間二間。

表門
石鳥居より十五歩ばかり隔てあり。爾柱の間二間、南に向う。

3.行人坂と太鼓橋(一円相唐橋)・椎の木・夕日の岡(初代・2代目歌川広重と歌川国貞と長谷川雪旦のスケッチとともに)

①行人坂
坂下から撮影した行人坂
急勾配15.6%(8.8度)の坂で、徒歩5分を要する350mの難所。
行人坂は、権之助坂が開通するまでは、人々の往来に重要な役割を果たした。
目黒不動尊に参詣する人々は、白金村方面から上大崎村永峯町(JR目黒駅)までの目黒道(白金通り)を経由して、二子道である行人坂を利用した。
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風土記「荏原郡下目黒村」の項において、行人坂の由緒は次のように説明されている。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡下目黒村「行人坂」
行人坂
村の東北の堺にあり、寛永の頃此處に湯殿山行人派の寺ありて大日如來を建立す、依てこの名あり、今坂の中程に大圓寺と云天台行人派の寺あり、是その名残なるべし
下目黒村②

続いて、目黒雅叙園の行人坂の案内板を転記する。
==========
行人坂
行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624年)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。
その後不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に行人が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。
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それぞれの説明を総合すると、行人坂という名称は、湯殿山の修行者である大海法師が、この地で大日如來(天台宗大円寺)を建立したところ、次第に修行者が集うようになったことが由来ということだ。
ところで、大円寺は、母が亡くなったとき、入院先の厚生中央病院からの紹介を受けて、その葬儀を行ったお寺である。
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浮世絵師の歌川広重(初代・2代目)が浮世絵を残している。
《資料》初代歌川広重「目黒行人阪之図」(広重東都坂尽)
歌川広重「目黒行人阪之図」(広重東都坂尽)

《資料》2代目歌川広重「行人坂」(江戸名勝図会)
歌川広重②「行人坂」(名所江戸百景)

2代目歌川広重・初代歌川国貞「目黒行人坂富士」は、富士見茶亭という茶屋の付近からスケッチされた。
行人坂と権之助坂の間には浄覚寺という寺があった(下目黒1-1)。
富士見茶亭はその東隣(品川区上大崎4-1)にあった。
現在の三井住友銀行の入るビルが該当する。
《資料》2代目歌川広重・初代歌川国貞「目黒行人坂富士」(安政2年、江戸自慢三十六興 書画五十三次)
歌川広重②「目黒行人坂富士」

長谷川雪旦の挿絵では「富士見茶亭」がスケッチされている。
挿絵のキャプションには、「西南遥にひらけて芙蓉の白峯を望む。風せん雲を掃て正に玄冬の色をあらわすかとみれば、忽然として又姿を失うこと、須臾にして定ることなく、時として其観を改む。実に佳景なり」とある。
※「須臾」は「一瞬」の意
《資料》長谷川雪旦「富士見茶亭」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
長谷川雪旦「富士見茶亭」(江戸名所図会)

秋・冬のシーズンになると、夕方、富士山が見える日がある。
2015年11月28日撮影。
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②太鼓橋・椎の木・夕日の岡(夕日か岡)
目黒新橋から撮影した太鼓橋。
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《資料》長谷川雪旦「太鼓橋」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
長谷川雪旦「太鼓橋」(江戸名所図会)

風土記「荏原郡下目黒村」の項において、太鼓橋の由緒は次のように説明されている。
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一圓相唐橋
行人坂下にあり、目黒川に架す長八間三尺幅二間、石梁なり水涯より石をかさなあけて造る、その形圓なるゆへ此名あり、又太鼓の状にも似たれば太鼓橋とも云、延享年中回圓の僧九州にて此橋の形を見たりとて、その制作にならひて作りしが、欄干いまだ成就せざりしを、後人綴で造作し、寳曆十四年より明和六年に至て遂に落成す、そのことにあづかりしその交名を碑に彫りて橋下に建つ
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡中目黒村「行人坂と一園相唐橋(太鼓橋)」
下目黒村(行人坂・太鼓橋)

続いて、目黒雅叙園の太鼓橋(椎の木)の案内板を転記する。
==========
太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により1991(平成3)年11月に完成した。
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風土記によれば、当初の正式名は「一円相唐橋(いちえんそうからはし)」という。
「円を一筆書き(一円相)したような、唐風の欄干のあるアーチ形の橋(唐橋)」という意味をもつ。
延享年間、回円の僧侶が九州で見た橋をモチーフにして作られたという。
モチーフになった橋は、九州のどこの何という橋なのでしょう。
風土記と雅叙園の説明を総合すると、制作期間は、宝曆14年(1764年)から明和6年(1769年)まで約6年を要したという。
始めは木喰上人(もうじきしょうにん=火を通したものは食べずに、木の実や果実のみを食べる修行をする人)が着手したが、橋の欄干がうまく行かす、後に八丁堀の商人達が資材を出し合って造作し、明和6年に完成した。
完成の当時、橋の建設に関わった方々の人名を列記(交名=きょうみょう=)した碑があったようだが、この碑は大正9年の豪雨で流されてしまったのでしょうか。
参考)大円寺所蔵「目黒川の太鼓橋に使用された石材」
現在、石材の一部がベンチマークになっている。
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続いて、目黒雅叙園の説明にある歌川広重の浮世絵を紹介する。
《資料》初代歌川広重「目黒太鼓橋夕日の岡」(安政4年、名所江戸百景 江戸百景)
歌川広重「目黒太鼓橋夕日の岡」(名所江戸百景)

太鼓橋とともに描かれている椎の木は現存している。
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椎の木の裏は目黒雅叙園。
浮世絵のタイトルにある「夕日の岡」とは、現在の目黒雅叙園を指している。
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次の浮世絵は「東都目黒夕日か岡」。
目黒雅叙園の地は、当時、楓の紅葉が綺麗な景勝地だった。
浮世絵には、目黒川や富士山のほか、目黒不動尊や下目黒町の町並みが描かれている。
この浮世絵は、杉野学園衣裳博物館(品川区上大崎4-6-19)付近(肥後国熊本藩細川越中守抱屋敷の外)からスケッチしたと言われている。
《資料》初代歌川広重「東都目黒夕日か岡」(安政6年、名所三十六景 富士三十六景)
歌川広重「東都目黒夕日か岡」(富士三十六景)

次の長谷川雪旦の挿絵では、下中央に太鼓橋が描かれている。
太鼓橋を渡って行人坂を登っていくと、右手に明神院(左中央)、大円寺五百羅漢(左上)。
夕日の岡は上中央にある肥後国熊本藩細川越中守抱屋敷内(抱地は大崎村と下目黒村地続)が当てはまる。
なお、享保2年10月「抱屋敷構之間取払申侠」により屋敷の長屋塀は存在しなかった。
《資料》長谷川雪旦「夕日岡 行人坂」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
長谷川雪旦「夕日岡・行人坂」(江戸名所図会)

《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸)

《資料》明治40年前後実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸・平成)

《資料》明治・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治・平成)

4.”ガッカリ名所”茶屋坂の検証

①旧茶屋坂の原形と爺々が茶屋の位置の検証
「茶屋坂と爺々が茶屋」
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝生の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。
平成3年3月
目黒区教育委員会
==========
上記説明によれば、茶屋坂(以下「旧坂」という。)は、かつて「大きな松の生えた芝生の中をくねくねと下るつづら折りの坂」だった。実際に古地図を確認すると、坂の中腹から頂上にかけて、かなりくねくねしていることがわかる。
《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(茶屋坂)
茶屋坂(江戸)

《資料》明治40年前後実測復元地図(茶屋坂)
茶屋坂(明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(茶屋坂)
茶屋坂(江戸・平成)

現況写真を使って説明していく。
以下の写真は、旧坂の中腹から撮影した。
右手に案内標が建つ。
“おかしなところ”に。。。
現在の頂上へのルートは、写真の方向に直進し、突き当たりで左折し、そのまま道なりに真っ直ぐ坂を登り詰める。
かつての名所は、自動車を走行可能にするために、元の地形がいじくり倒されており、全く原形をとどめていない。
由緒ある場所の割には、目黒区が歴史保存を怠った結果、「ガッカリ名所」となった。
20190413_163546
案内標転載
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茶屋坂
江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。
20190413_163253
坂の突き当たりで撮影。
傾斜のついた坂を左に曲がるのだが、これも当時はなかった道だ。
20131116_125116
旧坂の中腹に戻る。
中腹から左方向を撮影した。
左折したこの道こそ、元のルートである。
写真のように、道幅は広くなっているが、正規の道が残っている。
20190413_163516
そのまま左に進んで、最初の交差点を右折したところは登り坂。
この写真の左の建物の中をくねくねと抜けて登って行くのが正規ルートである。
したがって、どうせ案内標を建てるなら、こちらに建てるのが筋である。
目黒区の役人が何も調べずにテキトーなことをやった結果、”おかしなところ”に案内標が建てられたのだ。
20190413_163712

旧坂の頂上(右の坂)。
正確に言えば、当時の役人が自動車の利便性を追及してわざわざ地形を壊した結果、現在の”頂上”となってしまった地点。
因みに、写真左手の道には、新茶屋坂(以下「新坂」という)の隧道を通過した三田用水が日の丸自動車教習所方面に向けて流れていた。
20190413_164850
その隧道も新坂拡幅のため、平成15年に撤去された。
真相を言えば、目黒区は「管理に金(区民税)がかかる」という口実で、反対派に対して、新坂拡幅の理解を求めた。
交通量の少ない道路(新坂)を拡幅する必要があったのかね?(呆)

20190413_164423

20190413_164342
隧道が撤去された跡。
江戸時代、道は向こうまで繋がっていた。
新坂開削のため、どれだけ地形を破壊したかよくわかる。
20131116_125619
金八先生、刑事物語の時代、武田鉄矢氏在住の地から、現代の旧茶屋坂頂上付近まで撮影。
三田用水(暗渠)がこの道と並走していた。
勿論、フェンスの向こうまで陸続きの道があった。


繰り返すが、フェンスの右下にある新坂は、地形を削って新たに通した道。
ここは陸続きだった。
20131116_125615
新坂の頂上と現在の旧坂の頂上の中間(旧坂寄り)から、旧坂の頂上方面を撮影した。
この撮影地点に、新坂に地続きとなる形で「爺々が茶屋」があった。
歌川広重がスケッチした付近の写真である。
更に、私の子供の頃の記憶が正しければ、新坂と並行し、旧坂の延長にある道も、目黒台スカイマンション(昭和54年竣工)の建設に際して、改良されているはずだ(道の真下はマンション駐車場へのスロープトンネルになっている)。
20190413_164812

初代歌川広重の描いた浮世絵における茶屋坂と爺々が茶屋の風景。
今では、何ひとつ面影がない。
よく見たら右に行く道がある。
新茶屋坂のため掘削され消滅した道だ。
《資料》初代歌川広重「目黒爺々が茶屋」(安政4年、名所江戸百景 江戸百景)
歌川広重「目黒爺々ヶ茶屋」(名所江戸百景)

②爺々が茶屋を訪れた徳川将軍
旧坂の坂下より撮影。
左が旧坂、中央が茶屋坂街かど公園、右奥の宅地が「茶屋坂の清水」跡地になる。
更に言えば、右手には、三田用水白金分水路が通っていた。現在は暗渠の上に家が建っており、見てもわからない状態である。
20190413_162157
茶屋坂街かど公園(目黒区三田2-15-15)
「茶屋坂の清水」の碑がある。
20190413_162307
以下、案内板を転載する
==========
茶屋坂の清水と碑によせて
落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田二丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。
この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら涌き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。
こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。
その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一角にあった水交園の管理人夫妻が清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。
その後、清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として、付近の人々の命を救ったのでした。
この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。
目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。
平成7年3月 目黒区 土木部公園緑地課
20190413_162322
「残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています」
よくもまあ、よってたかって、跡形もなく壊したものだ。
爺々が茶屋については、風土記でも取り上げられている。
以下、「小名 味噌下」の項を転載する。
==========
澁谷村の方へ寄てあり、御遊獵御立場の邊なり、此所に茶店あり、一軒茶屋と云、土俗爺が茶屋と呼て、世に聞えたる茶店なり、御遊歴の時も、茶肆を開き、茶具を設け置を常とすと云り
※「肆」は「みせ」と読む(品物を並べたお店)
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡中目黒村「小名 味噌下」
荏原郡中目黒村(味噌下)
この地の由緒を示す各々の説明書の中で、私の目をひいたのは徳川将軍の件。
『目黒の坂 茶屋坂・目黒のさんま』(目黒区ホームページ)では、”暴れん坊将軍 徳田新之助”こと8代将軍徳川吉宗公に係る出典を明らかにしている。
新さん。。。
徳田新之助
島村家所蔵『古文書―御成之節記録覚―』や『一軒茶屋の図』の中から、元文3年(1738年)の猪狩りの折りに、吉宗公が茶屋場に立ち寄ったときの、将軍と彦四郎とのやり取りが紹介されている。
なんでも、島村家の子孫は、明治維新で世情が混乱の頃、茶屋場が度々泥棒に見舞われため、目黒2丁目(目黒区民センターの領域)に移転しているという。
==========
「藤の花は、咲くか咲かないか」
「少々、20房から30房ばかりですが咲きます」
「花は長いか短いか」
「野藤なので短こうございます」
「どのくらいの長さか」
「せいぜい7寸から8寸でございます」
「野藤ゆえ、そうであろう」
※「目黒のさんま」の作り話は以下リンク参照。
目黒の坂 茶屋坂・目黒のさんま(目黒区ホームページ)
次の画像は、2015年9月6日、目黒のサンマ祭りのときに撮影した目黒通りJR目黒駅東口(上大崎村永峯町)。
サンマを焼いた煙が立ち上る。
20150906_132401

===参考資料===
google Earth

『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)

『新編武蔵風土記稿』

三田用水研究:錢瓶窪右岸分水と千代が池

歴史を訪ねて 目黒火薬製造所(目黒区ホームページ)

歴史を訪ねて 目黒の水車

『東京御絵図』(官版 明治2年発行)

「東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件」(国立公文書館)

国指定史跡島原藩主深溝松平家墓所

深溝松平藩の屋敷地の変遷と屋敷指図(著者: 木村充伸 · 2008)

[慶應義塾豆百科] No.13 三田移転

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「千代ヶ崎」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所江戸百景 目黒千代か池(絵師:広重)

くずし字見ながら歴史散歩 絵本江戸土産(広重)第7編17 目黒千代ケ池

中央区立図書館「江戸土産  -千代ケ崎風景-下(錦絵)」

『鬼平犯科帳18』「俄か雨」(池波正太郎 文春文庫)

歴史を訪ねて 三田用水 1(目黒区ホームページ)

めぐろ歴史資料館2

めぐろ歴史資料館4

このまちアーカイブス(目黒・大崎)

目黒の坂 権之助坂(ごんのすけざか)(目黒区ホームページ)

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「金毘羅社」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)

高幢寺・金毘羅大權現(曹洞宗大本山永平寺御直末東川寺ホームページ)

目黒の坂 行人坂(ぎょうにんざか)(目黒区ホームページ)

江戸から明治の品川名所 第9回~目黒道(品川区ホームページ)

錦絵でたのしむ江戸の名所 広重東都坂尽 目黒行人阪之図(絵師:広重)

錦絵でたのしむ江戸の名所 江戸名勝図会 行人坂(絵師:2代目広重)

錦絵でたのしむ江戸の名所 江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士(絵師:2代目広重・国貞)

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊「富士見茶亭」(長谷川雪旦)

中央区立図書館「江戸土産  -富士見茶屋-下(錦絵)」

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「太鼓橋」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡(絵師:広重)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所三十六景 東都目黒夕日か岡(絵師:広重)

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「夕日岡 行人坂」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)

目黒の坂 茶屋坂・目黒のさんま(目黒区ホームページ)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所江戸百景 目黒爺々が茶屋(絵師:広重)

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