【地域史】東京都旧跡「稲付城跡」(曹洞宗自得山静勝寺)と稲付一里塚跡地 ★2026/2/21(土)13:40 2026/02/21
稲付村の史跡
この急勾配の高台の上には、太田道灌が文明年間(1469-87)か築城したとされる稲付城があった。

鎌倉街道中道(終点赤羽駅東口)と岩槻街道(国道122号北本通り)が接続する要衝に築かれた稲付城は、江戸城と岩付城を中継する重要な役割を果たした。

門の向こうにあるのは、太田道灌の木造坐像が所蔵されている道灌堂(1715建立)だ。

稲付城には、道灌の孫太田資高とその子太田康資が館を築いていたが、その後は後北条氏に承継され、後北条氏滅亡後、江戸入城した徳川家康の命で廃城になった。

静勝寺の起源は、太田道灌の死後、道灌の師であった雲綱和尚が、1504年に、稲付城の一角に道灌を弔う堂を建立し、道灌寺としたことにはじまる。
1655年、道灌の子孫の太田資宗が堂などを整備し、道灌とその父太田資清の法号によって寺号を自得山静勝寺と改めた。
静勝寺は、江戸時代を通じて太田氏の菩提寺とされ、1715年道灌堂、1694年旧本堂(現在の弁天堂)の建立に深く関与したと言われている。

メジロが何匹も飛び交う稲付城跡(静勝寺境内)。
剪定整備されていてとても閑静だ。

稲付城跡を含む赤羽台地の急勾配の崖下には稲付川が流れていた。
現在は暗渠している。

同じく、崖下には日光御成道(岩槻街道)が開通。
現在の赤羽西2-8付近には稲付一里塚があった。
日光御成道は本郷追分の一里塚で中山道と分岐し、西ヶ原村の一里塚が2里目、稲付一里塚が3里目にあたる。

稲付一里塚は現在の赤羽西2-8付近
古地図と小川に架かる橋があったのは中坂下。
以下、画像の人が写り込んでいる地点

稲付城跡 曹洞宗自得山静勝寺
〒115-0055 東京都北区赤羽西1丁目21−17


















