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【地域史】板橋宿平尾宿・仲宿・上宿(近藤勇・平尾一里塚跡・平尾脇本陣・板橋宿本陣・板橋・板橋大木戸・縁切榎・鎮守氷川神社) ★2026/3/21(土)11:33 2026/03/21

旧中山道板橋宿の史跡を巡る


新選組近藤勇生誕の地「調布市上石原」
都道229号旧甲州街道沿い
近藤勇が休憩した天台宗長谷山聖天院西光寺(調布市上石原1-28-3)には近藤勇像がある。

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近藤勇終焉の地は平尾一里塚(板橋刑場・馬捨て場)
平尾一里塚が置かれた地点は板橋宿(平尾宿)の起点にあたる。


跡形もない平尾一里塚は板橋区板橋1-54-1(画像の地点)
板橋1-54には板橋刑場・馬捨て場が置かれていた。
近藤勇はここで斬首された。


平尾一里塚の交差点から近藤勇墓所のあるJR板橋駅東口方面に向かう
ここで急なスロープになっているのは谷端川暗渠(直進側)と千川上水暗渠(左右側)の合流地点であったことに起因する。
一瞬、一里塚はこっちの高地に置かれたと倒錯しそうだ。


近藤勇と新選組隊士供養塔(北区滝野川7-8-10 真言宗豊山派寿徳寺の境外墓地)
近藤勇の首は京都三条河原に曝されたが、胴体は滝野川三軒家にあった無縁塚に埋葬された。


平尾交番
旧中山道はここで新道中山道(国道17号線)とクロスする。


国道17号を渡ると旧中山道平尾追分に到達する


平尾追分
旧川越街道の起点であり、旧中山道と旧川越街道を分けた地点


右にカーブする道が旧川越街道
左が旧中山道


板橋平尾宿の名主である豊田家の屋敷跡・板橋宿平尾脇本陣(板橋区板橋3-15)
下総中流山で新政府軍に包囲されて出頭した近藤勇。
板橋宿本陣で正体を見破られてしまい、捕縛された後に移送されたのが板橋宿平尾脇本陣。
近藤勇は処刑されるまでの間、ここで身柄を監禁されていた。


中山道板橋宿仲宿
我が母校帝京高校の応援幟が凪いている。


中仙道板橋宿仲宿碑(板橋区仲宿39-4)
★二里二十町九間・・・10.052.72m(十粁五十二米)
「中仙道板橋宿 これより仲宿商店街 日本橋より二里二十町九間(十粁五十二米) これより北上すれば 上州高崎を経て 越後路・木曽路に至る」


板橋宿本陣飯田新左衛門家跡(板橋区仲宿47)
江戸から10㎞程度の位置にあった板橋宿は、宿泊用途というより休憩施設として利用され、藩主と江戸の家臣との謁見・送迎の場としても機能した。
板橋宿本陣は古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたが、当家が宝永元年(1704)に別家する際、世襲名「新左衛門」・本陣・問屋役を承継。
同時に広大な土地を譲渡された。
現在、飯田家は仲宿の大地主だ。

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板橋宿中宿名主飯田家跡(板橋宿中宿脇本陣 名主 飯田総本家)(板橋区仲宿54-5 ステージファースト板橋区役所前アジールコート)
飯田家は大坂の陣で豊臣家に仕え、中台村から下板橋村に移り、仲宿を開発して名主となった。
総本家(世襲名「宇兵衛」)は宝永元年に本陣を新左衛門家に譲渡。
名主家(宇兵衛家)と本陣家(新左衛門家)は養子縁組を行うなどその機能を相互補完し中宿の管理と宿駅の機能の維持・運営にあたった。
近藤勇の身元を見破り捕縛した場所だ。

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板橋(石神井川)
日本橋から二里二十五町三十三間(10.641.81m)
板橋の地名由来はこの橋にあると言われている。


残念だが、桜はまだ満開ではなかった


石神井川板橋にある公園は元の流路。


石神井川板橋は板橋十景のひとつ


板橋を越え、仲宿から上宿へ
板橋本町交番・本町にぎわい広場にある火の見櫓のモニュメント(板橋区本町25-10)
板橋区職員(板橋区産業経済部くらしと観光課)に確認したところ、江戸時代に火の見櫓が置かれていたという。

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板橋本町交番裏にある中山道板橋宿上宿案内板と碑


ここで板橋大木戸の所在地について検証する。
板橋大木戸については諸説あり
➀板橋上宿の中華料理かさま付近(年貢町屋の並んでいたエリア)から板橋本町交番・本町にぎわい広場までのエリア


➁板橋上宿の板橋の次に架かる番場橋付近の現在マンションがある場所(板橋区本町27)


➂板橋平尾宿の外(平尾一里塚付近 滝野川三軒家エリア)


➃そもそもなかったとする説


大木戸には番太と呼ばれる木戸番が常駐していた。
木戸番は犯罪者や不審者の通行や逃走を防ぐため22:00頃に閉門。
また、犯罪者を捕獲する必要などが生じたときには、時刻に関わらず木戸を閉めて人の往来を止めた。
板橋大木戸は高輪・四谷と並ぶ3つの大木戸のひとつであり、とても重要な役割を果たしたのに、板橋大木戸に関しては碑文さえ残っていない。
➀火の見櫓や➁番場橋の地名から板橋大木戸があったとする説には信憑性がない。
四谷大木戸や高輪大木戸に見られるように、江戸市街地へ入る検問所の機能を果たすため、宿場町の外にあるべきものだ。


そこで、板橋本町交番・本町にぎわい広場の少し北にある縁切榎の絵馬を売る長寿庵の女将に聞いたら脊髄反射で即答された。
➂宿場町の入口付近(平尾一里塚の外)とのことだった。

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大木戸から話題を変えて、その「旧中山道岩之坂 縁切榎」」(榎大六天神)について説明する(板橋区本町18)。
現在、全国の観光客やストーカー被害者が集う人気のパワースポットとして有名な縁切榎とは、幕府の直参旗本近藤登之助の抱屋敷にあった古木のことだ。
屋敷内には榎と槻の古木があり、その榎がいつしか「縁切榎」と呼ばれるようになった。
嫁入りするため、中仙道を使って京都から江戸に入ろうとする公家の皇女和宮が、縁起が悪いので迂回したという逸話を残す。
江戸庶民の間では、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるというので礼拝の対象とされていた。



願を掛ける者は、この木の樹皮を削り、煎じて飲ませると良いとされている。
初代の榎は明治時代の火災で燃えてしまい、部分的に残っており、神棚の中に祀られている。
石に埋められた榎は二代目で昭和40年代に刈り取られ、現在の境内の樹木が三代目。
今でも、削る人が途絶えない。


江戸時代、亭主の暴力、不貞、博打などが原因であっても、女房は亭主に離婚を切り出せなかった。
駆け込み寺に駆け込んで尼さんになるしか選択肢がない時代。
榎の木を削り、飲み物に煎じて飲ませたりして、縁切りを祈願したそうだ。

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三代目の境内の神木にも削られた跡がある。
見ての通り、カバーされている。

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縁切榎の利用方法。
境内の中に案内が記されているが、時間帯に応じて、長寿庵(午後2:00~)と柳花美容室(午前)で絵馬を1000円で購入する。
どちらのお店も、縁切榎のそばにある。
※画像右は長寿庵


自身も女性からストーカー被害に遭っていたときに、ここで願をかけたことがある。


旗本・近藤岩見守の抱屋敷(以下、江戸古地図参照)は、現在の縁切榎の対向のエリア。
下板橋宿上宿(江戸)


明治43年当時の地図を観る限りでは、その当時、左の自販機のあるエリア(川縁)に縁切榎が祀られていたようだ。
※右は板橋本町交番

下板橋宿上宿(明治)

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参考までに、江戸・現在重ね合わせ
下板橋宿上宿(現代・江戸)


明治・現在重ね合わせ
下板橋宿上宿(現代・明治)


板橋宿の鎮守である氷川神社(板橋区氷川町21-15)
銀杏並木がきれいです。

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富士塚
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後ろの部分は国土交通省の道路族によって、中山道拡張工事の際、削られてしまった。
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