【地域史】太田道灌~江古田原・沼袋古戦場 ★2025/12/26(金)15:23 2025/12/26
2018/5/6アップロードの更新
下の写真は新青梅街道(江戸道)の江古田大橋付近を撮影。
妙正寺川から江古田川が支流する橋である。
この付近では、昭和11年に水道管埋設工事が行われたときに、旧石器時代にあたる最終氷河期(16000~11000年前)の植物化石を多数含んだ土層が発見されました(江古田植物化石層・・・地下2m前後にある厚さ2m程度の土層)。

江古田植物化石層の案内板は、江古田川の東橋に表示されている。

江古田大橋の袂、江古田公園内にある江古田原・沼袋古戦場跡の碑(江古田公園・松ヶ丘2-35)

新青梅街道起点(西落合1丁目交差点)から環七丸山陸橋を越えた辺りまでを中心線にして、太田道灌ワールドが広がる!
太田道灌ワールドが広がるエリアマップ

江古田原・沼袋の戦いとは、現在の中野区江古田1丁目と2丁目にあたるエリアを中心に争われた合戦。

同じく、豊島氏石神井城の支城である平塚城(平塚神社 北区上中里1−47−1)

太田道灌が本陣を張った沼袋氷川神社(沼袋1-31-4)。
文明9年(1477年)、江古田原・沼袋合戦のとき、太田道灌が戦勝を祈願して境内に植樹した杉の根が残っています。
高さ30メートルに達した「道灌杉」は1944年(昭和19年)頃に枯れてしまったそうです。

開戦の火蓋が切られた地点は「哲学堂交差点」付近と言われています。
この交差点の四隅には各々に高さ及び直径約3m程度の塚があったそうだ(確認された12基の豊島塚のうち、ここには4基あったので「四つ塚」と呼ばれている。豊島塚とは合戦の戦死者を葬った塚である)。
画像の左右を走る道
①左は中野通り・・・明治に入って開通した道
②右は哲学堂通り(Wikipediaを見たら「新井薬師通り」とあるが、そんな通りはありません!現地を見ないで書いているのです)・・・昭和になってから開通した道
現在、新宿区と中野区の区界になっている。
正面と手前(撮影地点)は新青梅街道です。
当然、昭和に開通した道です。
ちょうど正面左の新青梅街道に並行する裏道が合戦の当時を偲ばせる太田道灌が開通した江戸道(旧道)であり、右の新青梅街道は東南側の塚を壊して開かれた。

上記写真内のうち、新青梅街道と、並行する裏道をクローズアップ
なお、交差点の北西側(セブンイレブンのエリア)からは兜、腐った刀、人骨が、東南側(下の画像を撮影したエリア)からは馬骨が出土されたが、何故かいずれも現存していないそうです。

なお、この交差点が「鎌倉街道中道と江戸道の交差点」とする説は誤報です。
鎌倉街道中道は哲学堂の中を抜けて蓮華寺・野方配水塔(中野区立みずのとう公園)の前の道を通過する。

交差点の南西側(哲学堂公園と道路の敷居フェンス内)には、道路建設の際、豊島塚を削平したときに出た土を盛っている。
ちょうど木の下が隆起していますが、存在を知らせる案内板等中野区がきちんと歴史を伝える努力をしなければ、誰も見ないし、気づきません。

葛谷御霊神社(新宿区西落合2-17-17)
御由緒には「寛治年間(1087~1094)鎮守府将軍・源義家による奥州の討伐(後三年の役)の際、旧山城国桂(葛)の里の一族が義家の軍に従った」とある。葛谷(くずがや)の”葛”は”桂”に由来している。
葛谷御霊神社は葛ヶ谷村の鎮守であり、太田道灌と豊島氏との戦では再三の焼き討ちにあったと言われています。

葛谷御霊神社の別当寺であった真言宗豊山派西光山自性院無量寺(新宿区西落合1-11-23)。
ここはちょうど、新青梅街道の入口付近にあたります。
自性院無量寺には「緒戦に敗れて道に迷った道灌を一匹の黒猫がこの寺院に導き、それによって道灌は敵兵から逃れることが出来た」とする「招き猫伝説」が残っています。

道灌は江古田原・沼袋合戦の勝利後、黒猫を飼養し、猫地蔵を奉納したといわれている。
猫地蔵堂

金井塚(江古田4-10)
直径3m、高さ1.5mの豊島塚があった場所。
現在は駐車場になっているここもまた、遺構・案内板がない。
そういえば、1997年2月~2006年1月まで、この地から徒歩5分圏内に住んでいたんだ(豊島区南長崎6丁目・新宿区西落合4丁目)。

稲荷塚(江原1-44)
現在は須賀稲荷神社の敷地になっている。
違法駐車している東京無線のタクシーが邪魔で、正面から撮影できず、中心を外しています。

豊島氏(泰明・泰経)の勢力は無鉄砲が所在するエリアに、太田道灌の勢力は哲学堂エリアで、それぞれ対峙した。
店の横の細い道を入っていくと、古塚(稲荷塚・狐塚)とお経塚があります。

無鉄砲の横の道を真っ直ぐ行くと、豊島塚のひとつと言われる古塚(稲荷塚・狐塚)跡地に達する。
道と豊島塚があった江古田二丁目公園(江古田2-21)側には段差があって、公園側は低くなっています。
かつては25坪ほどの小高い藪地だったそうです。
現在、当時の名残になるような遺構は何も残っていませんが、地元では「稲荷塚」、白い狐が住んでいたことから「狐塚」とも呼ばれ、また、地元の人が、元々あった古塚を家畜の捨て場所に使っていたことから「馬捨場」と呼ばれていた。
この周辺でも人骨が出土しています。

古塚周辺を背にして左に真っ直ぐ進んで突き当たる地点(写真の正面奥)がお経塚(江古田2-14)です。
こちらには遺構が残っています。

お地蔵さんと馬頭観世音です。
石碑を見たら、
お地蔵様は「武州多磨郡江古田村念佛講中 元文三戊午年八月」建立(1738年)
馬頭観世音は「安永五丙申年六月十八日」建立(1776年)
であることがわかります。

伝承では、東福寺が火災で焼けたときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったと言われている。
この塚は、元々東福寺の土地であり、大正時代、道路工事のために塚を整地したときに、経筒と合わせて人骨が出土したことから、江古田原・沼袋合戦の戦死者を埋葬した塚であるとも言われています。

お経塚(写真右)から撮影。
向こう(北)に見えるのは江古田氷川神社です。
この道はきっと江古田氷川神社への参道だったのでしょう。
そのお隣が江古田氷川神社別当寺だった東福寺があります。

江古田氷川神社(江古田3-13-6)は太田道灌が江戸城を築城した3年後の寛正元年(1460年)、牛頭天王社として創建された神社である。
創建から17年後の文明9年(1477年)には江古田原・沼袋合戦場となり、元禄9年(1696年)に氷川社と改称。

東福寺は享保13年(1728年)春、第8代将軍徳川吉宗の鷹狩のときの御膳所となったことでも知られている。
寺社奉行の命で改修された「御成りの間」は、建物改築のときに取り壊されてしまった。
鷹狩りは、第5代将軍綱吉による「生類憐れみの令」で廃止されてきたが、8代将軍吉宗のとき復活した。

東福寺に訪問した時、お寺から出てきたお年寄が東福寺の木製の門にたばこをこすりつけて火を消し始めた。
「あんた何やってるんだ?警察呼ぶぞ!」と叱りつけてやめさせた。
ちょうど近くを通りかかったご年配のおばさんも爺さんに怒って詰め寄った。
もう、どうしようもねぇな、団塊世代は・・・

この地から西へ移動し、金塚(江古田4-41-8)へ。
大正時代には直径3m、高さ1.5m程度の円形の塚が残っていたが、昭和10年頃から始まった中新井土地整理組合による道路整備で塚は削平されてしまったそうです。
削平した時には多数の人骨が出土されたことから、この地は江古田原・沼袋合戦の激戦の中心地と言われています。
「金塚」という石碑は昭和初め頃の地権者が造った供養塔ですが、塚の跡地は、削平後、一時国有地となり、現在は民家になっています。

丸山塚公園(沼袋2-40)。
地元有志による江古田原・沼袋合戦の戦死者の慰霊碑と、再建された供養祠。

「豊玉二百柱社」の由緒書には
「文明九年四月十三日、江戸城主太田道灌は平塚城の豊島泰明を攻めたが頑強な抵抗にあい帰城した所、石神井・練馬両城より兄泰経が江戸城を目指し進発したことを知り急遽出撃した。両軍は江古田が原・沼袋で遭遇し激烈な戦闘を展開した。興亡をかけて戦った豊島氏は敗れて泰明以下百五十余名がこの地で戦死し、在地の領主として栄えた豊島氏は致命的打撃を受けた。江戸道沿いに占有の古墳は豊島塚といわれた。このたび地元有志の者が供養のため古来の祠を再建して戦没者の霊を祀る。昭和四十九年一月吉日 当所有志一同 須藤亮作・撰」とある。
★Wikiの江古田原沼袋合戦の項では、「豊島二百柱社」として紹介されている(そんなものはねーよ!バーカ・・・Googleマップには「豊島二百柱社」と案内されている)。
Wikiには地雷を踏ませるように、シレっとウソがちりばめられているから気を付けましょう。

新青梅街道と環七の丸山陸橋交差点を越えると、豊島塚のひとつといわれる大塚(野方6-18)がある。
ここは宅地になっており、案内板はありません。
東側は北原通りという商店街になっている。

西側の横道はアップダウンの坂になっている。
地形が残っていることから、塚があったのは西側なのかな。
大塚は高さ5mの最大規模の豊島塚で、別名「首塚」と呼ばれており、豊島泰明や赤塚氏、板橋氏らを処刑し、首を埋めたところと言われている。

中野北郵便局前の歩道には豊島塚のひとつといわれる高さ1.5m程度の蛇塚(丸山1-28)があった。
こちらにも案内板はない。
立地はちょうど練馬区と練馬区の区界に位置している。
環七開通工事のときに削平されてしまった。
削平前、地権者が盛土して築山を造り、頂上に天女の石像を安置していたそうです。

末社北野神社(天満宮)は太田道灌が中荒井の陣屋内に奉ったとされている。

そばには「正徳五乙未 十一月十八日」jの馬頭観世音が祀られている。
1715年にあたる。
同行拾人。
願主は矢嶋政右門氏。
豊玉南地区の地主に「矢嶋」姓の方がみられることでしょう。

神社隣の真言宗豊山派天満山正覚院(練馬区豊玉南2-15-35)。
江戸城築城の際、太田道灌崇拝の天満宮を守るため創建された別当寺です。


武蔵野稲荷神社(練馬区栄町10-1)。
社殿の下が「豊島塚」だったという説があるそうですが、武蔵大学を挟んで、古戦場から随分離れています。
ここで、今更ながら初詣。
これまで初詣する気分にならなくて、やっとそういう気になりました(2018年5月16日)。







































