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【地域史】清戸道(目白坂→目白通り→南長崎通り→千川通り→目白通り→大泉通り・・・清戸下宿そして中森明菜の故郷館村) 2019/06/28

清戸道


目白通り(旧目白通り)が南長崎交番で二又に分岐し「目白通り二又商店会(ニコニコ商店街)」へ。
我が家を南下し西武池袋線踏切を渡って真っ直ぐ行くと、この道に達する。
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子育地蔵尊(豊島区南長崎2-3-8)
元は南長崎交番の手前(目白二又地点)にあったという。
昭和13年、目白通り拡幅工事に伴い現在の場所に移転された。
地蔵の台座正面には「宝永七年十月十二日 長崎村施主」
右側面には「是より右 川越うら道」と刻まれているようだが、残念ながら、地蔵尊をいじることもできないので、早々に見るのを断念した。
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この一通路のトキワ荘跡地周辺の通称は「トキワ荘通り」。
この一通路は、南長崎6丁目で鎌倉街道と交差し、鎌倉街道を横断すると、千川通りへと接続する。
左は赤塚不二夫、藤子不二雄、藤子不二雄作品に登場した”ラーメン大好き小池さん”のモデル鈴木伸一などが通った中華料理松葉。
写真の右に入るとトキワ荘跡地がある。
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この道は元々江戸時代に拓かれた「清戸道」といい、江戸川橋の目白坂(旧坂)を起点とし、清瀬市下宿3丁目志木街道との交差点を終点とする古い道である。
成立の経緯は明らかではないが、尾張藩の鷹場が清戸にあり、鷹狩に向かう際、尾張藩主が利用した道のようだ。
写真は目白坂(旧坂)。
非常に急な坂です。
江戸時代には「立坊」が現れ、農民が農産物や下肥を満載した荷車を上り下りさせる際に手助けして駄賃を稼いでいたそうだ。
この坂の頂上付近は椿山荘・・・13年前に結婚式を行ったところだ(笑)
椿山荘入口で目白通りと合流する。
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Twitterでこんな情報を得た。
清戸道の庚申供養塔が椿山荘の中にある・・・
椿山荘内に清戸道があるはずがない。
椿山荘敷地は上総国久留里藩中屋敷。
抱屋敷なら考えられなくもないが、上屋敷・中屋敷・下屋敷の大名屋敷を、一般の通行人が通行できるはずがない。
清戸道は目白坂(旧坂)からの道なりであり、今も昔も同じだ。


椿山荘へ赴き、案内板を確認したところ
・寛文9年(1669)建造
・「当時、この辺りに野道があった頃から現在の位置にあったと伝えられています」
Twitterの主は、清戸道が成立するよりずっと昔から、その近くにあった「野道」を「清戸道」と言っている。
少なくとも当該野道を含む領地が藩邸になった頃には、清戸道は開通していたのであろう。
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なお、庚申塔の位置も藩邸内のようだ
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ちなみに、目白通りは目白坂に並行する「目白新坂」を登っていく。
私は自転車で頻繁に利用するのだが、電動アシストがついていないので、概ね5分の3付近でバテてしまう。
なお、新坂は明治期に拓かれた道である。
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田中角栄邸も目白通り(目白台)にある。
ちょうどこの辺の銀杏並木では、春から梅雨頃、夜になると、コウモリが飛び交っている。
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目白通りは不忍通り(終点)と合流。
この不忍通りへの下り坂を「清戸坂」という。
「(不忍通り側から)清戸坂へ上がる坂」が由来となっている。
なお、清戸坂の北西側には弦巻川が流れ、ナス畑が一面に広がっていました。
有名な雑司ヶ谷のナスです。
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清戸道は目白駅前を通過後、山手通りを横断し、南長崎交番で二又に分岐(冒頭の写真)しトキワ荘通りへ。
トキワ荘通りを直進して程なくすると、左手に一軒の古屋敷がある。
地元では有名な材木商の「岩崎家」の屋敷である。
正門は文化財になっており、区が予算を支出し、先ごろ修復した。
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上記の反対側から撮影。
従って写真右。
これが修復された門である。
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私も以下の動画を撮影した南長崎6丁目(清戸道と鎌倉街道の交差点)付近に在住していたことがあるのだが、お世話になった地元の不動産屋によれば、この辺りから西武池袋線の西武百貨店(ビックリガード付近)までが岩崎家の土地だったそうです。


清戸道(千川通り)を進み、江古田二又方面に向かう。
練馬区立旭丘地域集会所入口には、明治37年、千川上水の土堤に建てられた火の見櫓に取り付けられていた半鐘が置かれている。
元々、この場所にあったものだが、昭和初期に別の場所に移され、昭和48年頃まで使用されていた。
※この辺りの千川上水は昭和30年までには暗渠したようだ。
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清戸道(千川通り)江古田二又交差点。
千川上水は、江古田二又を境に、現在の歩道の左側から右側に位置を変える。
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清戸道の碑と清戸道・千川上水案内板(練馬区栄町7)
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清戸道と千川上水
この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延長は約15㎞になります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。
大正4年武蔵野鉄道(西武鉄道の前進)が開通するまでは練馬・石神井・大泉から市中へ出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根や野菜を積んで街に向い、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって、なくてはならない道でした。
この辺は清戸道に沿って千川上水が流れていたので、千川通りとも言います。千川上水は元禄9年(1696)、江戸小石川、本郷など城北方面の飲み水として玉川上水より分水された上水道です。開通から11年後の宝永4年(1707)、上水沿い20か村の農民の願いで、灌漑用水として利用することが許されました。用水の管理は、工事を成功させた功により、代々千川家が当りました。千川の水を引いた田は1反(10アール)について米3升(5.4リットル)を水料として千川家に差し出しました。千川の水の恩恵を受けた田は全部で100町歩(100ヘクタール)にも及んだといいます。
この辺りは、昭和20年代の終わり頃から暗渠工事が始まりました。
平成12年10月 練馬区教育委員会
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千川通りにある「桜の碑」(練馬区桜台1-4-11)
千川が暗渠しているグリーンベルトに建てられている。
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案内板では清戸道を紹介している。
千川上水の件については、練馬区栄町7で書き記した碑の続きに当たるの紹介文が書かれている。
「田へ引いた分水の跡が、今も中村橋・桜台駅前・武蔵大学内・羽沢などに残っています。桜台という地名は、この千川上水沿いに植えられた桜並木にちなんでつけられた駅の名前によったものです。桜の記念碑は、このことを記念して地元の有志の方々が区に寄贈されたものです(昭和63年3月 練馬区教育委員会)」と。
清戸道は、練馬で千川の流れと別れ、北西に向かって清瀬下宿へ続いて行く。
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目白通りの裏道にある須賀神社前に、清戸道の碑がある(練馬区貫井5-4)
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練馬区総合体育館前にある清戸道の碑(練馬区谷原1-7-5)
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「江戸時代から練馬のお百姓さんは、朝早く野菜をもって町に向い、昼頃には下肥を運んで帰って来ました。その下肥を、中農以上の百姓は、馬の背で、中農以下の百姓は、天秤棒で運びました。明治、大正時代には、手車が発達し、金輪のはまった車の音は、静かな夜明け前の空気をふるわせていました。目白坂に車のあと押しをしてお金をもらっていた立坊がいたのも有名な話です。このように清戸道は農産物輸送の重要な道路でした」(平成15年3月 練馬区教育委員会)
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清戸道は谷原5丁目交差点から大泉通り(都道24号)へ。
練馬年金事務所の近くにある庚申供養塔にも清戸道の碑が建っている(練馬区三原台1-28-2)。
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平成28年3月、練馬区教育委員会が建てた案内板だが「目白坂(新宿区)」とある。
いったいどこ出身の、どんな資質をもった地方公務員が、案内文を担当したのだろう。
「区民の税金を使っている」「不特定の人が読む」っていう自覚があるのかね?
目白坂は文京区だよ。
神楽坂と勘違いしたのかね?
呆気者の練馬区教育委員会、恥を知れって。
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清瀬市下宿3丁目。
志木街道交差点が清戸道の終点。
多磨郡清戸下宿字陣屋に白山神社がある。
郷土史料『清瀬市史』第4章中世 第2節中世の開発 P211
「下宿の白山神社も神社書上帳に天正年中の創立をうたっており、祭神を伊邪那岐命としている。白山信仰についてはさまざまにいわれているが、まだ定説はない。滝城の武具製造などに関連の社ではあるまいか。」という記述がある。
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すぐ裏には柳瀬川が流れており多磨郡と入間郡の郡界となっていた(現在は東京都清瀬市と埼玉県所沢市境界)。
柳瀬川の対岸は滝の城跡(所沢市城)。
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北多磨郡、清瀬村、下宿、陣屋
○志木街道筋。多磨・入間・新座三郡入会の地にて、入間郡とは柳瀬川を郡界とし、志木街道は下宿を通過し、新座郡大和田町、舘村へと通ずる。清戸道は練馬を経由し、清戸村で、北は志木街道へ、南は府中街道へと分岐する。清戸村は永禄七年の北条氏の清戸番衆交代命令状をみても、清戸下宿に番所があって、城の防御と密接な関係があったと推定されている。
○白山神。天正年中の創始と云い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に落城した、北條氏照の出城である滝城の武具製造を担っていたと云。
○民戸六軒、姓は1つ。近く新座郡舘村と同郡北野村の長吏との繋がりが深い。
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=印はかなり昔に郷土史などをまとめたものだが、文中「新座郡館村」(中森明菜の出生地)にある白衣観音堂(白山神社)の複数の石碑から繋がりが深いことが判明する。
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