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【地域史】稲城市3か村白山神社(大丸・百村・矢野口)の検証を通じて『部落問題研究所紀要』史料・論評のエセ同和っぷりを暴く件 ★2023/10/14(土)5:30 2023/10/14

解同と癒着して嘘を吹聴するエセ同和斡旋業の本田豊の文献と思ったよ(呆)


どっかから文献を引っ張ってきてはツイートしている”らんらん”というコテ垢がいる。
以下、彼が取り上げた文献は部落問題研究所著(出版)『部落問題研究所紀要』(解同と対立する共産党系の団体)によるものらしい。
このエセ同和本は、穢多村ではなく、明治以後、内務省が部落指定したスラムを部落として取り上げている。
関八州の部落に関して、長吏、小屋者、貧民窟の棲み分けをしない部落本、白山神社がある地区を十把一絡げに部落指定している部落本はゴミ屑だ。
この手のバッタ本を研究史料にしている人々は、無名地区部落指定の著述を見ると疑いなく鵜呑みする(基本知識があれば、眉唾と疑うぞ!W)。
従って、基本も知識もめちゃくちゃであることが明らかだ。
そして、執筆した部落問題研究所は本田豊同様、エセ同和としか思えない。


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ツイートの執筆画像中、稲城市のみピックアップして解読してみることにした。
『部落問題研究所紀要』の中で、稲城市の3か所が「未解放部落」指定されているが、あてずっぽうに白山神社がある地区を並び立てて部落指定していただけだ。
オレの見解は
1.稲城町…一般社
2.百々村…妙見寺持…百村(もむら)を百々村というの???w
3.矢の口…個人持(穢多村)


1.稲城町…一般農家
※2005年2月2回と10月2回合計4回訪問


①稲城市大丸西田にある白山神社跡の参道。
反対側も坂を登る道なりの参道だ。
見ての通り坂上にある。
※地番を書いていたが削除した(10/15 9:07)
オレはここまで調べるのに、史料にも訪問工数にも相当なカネと時間を費やした。
だから、自分では調べもせず、オレの情報をもとに動画回して農民ヒアリングに明け暮れる輩には知られたくない。

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白山神社は頂上付近にあった
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地区住人は石井・大久保・岩井・松本・芦川・越智・長瀬・梅澤・田中・吉野・高野
40吉野③

40吉野④


②新編武蔵風土記稿~多磨郡大丸村附持添新田
舊蹟 壘跡 字西田にあり、土人これを城山と呼ぶ、登り一町餘の山にて、上に堀の跡とおぼしき所あり、廻り五六十間ばかり、山の廻りに瓦のかけたるもの多くあり、それより上の方二丈ばかり高き所に少しき平地あり、物見などせし所なるべし、中腹に白山の小社あり、何人の居住せしと云こと傅へず
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③合祀:大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸東方847)
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石鳥居:昭和五十四年十月吉日 当所 石井國太郎 石工山口石材
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狛犬:平成七年六月吉日 寄贈 石井國太郎
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合祀された白山神社
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④曹洞宗直心庵(稲城市大丸東方839)
 山口(酢漿草紋-丸に酢漿草)
 石井(木瓜紋-丸に平四つ目/井筒紋-丸に隅立て井筒)
 岩井(蔦紋-丸に蔦)
 田中(沢瀉紋-丸に立ち沢瀉)
 小林(橘紋-丸に橘)
 神谷(酢漿草紋-丸に剣方喰)

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⑤臨済宗建長寺派大慈山圓照寺(稲城市大丸東方851)
 大久保(藤紋-丸に上がり藤)

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⑥天台宗醫王寺墓苑(稲城市大丸西田914)
 高野(鷹の羽紋-丸に違い鷹の羽)
 吉野(沢瀉紋-石持ち地抜き抱き沢瀉)

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稲城市大丸西田大丸城址
大丸城址①


2.百々村…百村のことと思われる
※2005年2月2回と10月2回合計4回訪問


①白山神社・百村地蔵(稲城市百村六萬臺1072)
旧鶴川街道・六間台(ろくまんだい)遺跡・瓦谷戸窯跡
現地ではわかりにくいが、妙見寺百村共同墓地敷地内にある(裏手は墓地)

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昭和六十三年十一月二十日 山口泰平建立
※山口泰平氏:当時、稲城市百村1123番地 妙見寺入口前在住

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石祠
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新編武蔵風土記稿~多磨郡百村
○妙見寺 除地、凡五段、小名中谷にあり、神王山観音院と號す、天台宗、江戸東叡山の末寺なり、開山の来由を傅へず、本堂八間に六間半、北に向、本尊大日木の坐像にして長一尺五寸、△観音堂 本堂に向て左にあり、三間四方、十一面観音長一尺ばかり、木の坐像

※十一面観音があるので、白山神が祀られていたとしても不思議ではない。
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百村地蔵(地蔵菩薩庚申塔):奉納 福島・岡田・吉田3氏
白山神社の横に地蔵があるのは共同墓地との関係だ。

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妙見寺共同墓地
①平成十五年出資者一覧
 松本・磯川・石井・小池・小宮・福島・内田・岡田・山口・松原・榎本・市川・鈴木・神谷・山中・芹沢・北・池水
②昭和五十八年檀家一覧
 礒川・石井・市川・内田・榎本・岡田・神谷・小宮・小池・小泉・鈴木・杉山・芹沢・玉野・舘岡・野口・福島・堀田・松本・松浦・松原・山口・山中
③檀家総合
 礒川・池水・石井・市川・内田・榎本・岡田・神谷・北・小宮・小池・小泉・鈴木・杉山・芹沢・玉野・舘岡・野口・福島・堀田・松本・松浦・松原・山口・山中
④家紋
 石井(木瓜紋-丸に平四つ目/蔦紋-丸に蔦)
 礒川(沢瀉紋-丸に立ち沢瀉)
 内田(藤紋-下り藤)
 榎本(茗荷紋-丸に抱き茗荷)
 岡田(酢漿草紋-丸に酢漿草/沢瀉紋-丸に立ち沢瀉)
 小池(鶴紋-鶴の丸)
 小宮(鷹の羽紋-丸に違い鷹の羽)
 鈴木(藤紋-下り藤)
 芹澤(木瓜紋-丸に平四つ目)
 福島(桐紋-丸に五三の桐)
 松本(松紋-三階松)
 山口(調べたがわからなかった)

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②天台宗神王山観王院妙見寺(稲城市百村中谷1588)
入口の正面にある広大な山口家

1山口泰平①


3.矢の口…長吏小澤氏の個人持(現在は中島部落と呼ばれている)
2005年10月訪問


①白山神社(稲城市矢野口川原394)
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②小澤家墓地(稲城市矢野口川原255)
 橘紋-丸に橘

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③中島集会所
土着は小澤、入植婚姻には、田中(神尺)・齊藤(五宿)・森田(婚姻、もしかしたら六浦東高谷かも知れない)

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④『余多歩き 菊池山哉の人と学問』前田速夫 P158-159
 「上恩方村巡礼」(「多摩史談」三巻四号、昭和十年三月見学会)
 ○恩方の名義は「奥方」。
 ○関場は案下川の最奥上案下の峠下にある。峠を和田峠といい、越せば甲州佐野川村から上野原へ通じる。佐野川往還と呼ぶ甲州路の裏街道で、寛永年中、平正清という名の関守が情婦を引き入れた廉で処刑されたと伝えられ、それきりこの地の関所は絶えたものであろう。口留番所は下流小字高留に設けられている。
 ○上案下は大体、渡辺、小沢の両氏。小沢の現当主は小沢左京氏。熊野神社、穴沢天神社両社の神主。社殿はなく、大きな標石に神縄を張ってある。熊野神社は昔、山の頂きにあったが、慶長年間、野火で焼けたため、小沢一族の祭祀する穴沢天神社に合祀された。この小沢一族なるものは南朝方だったため、明徳二年(一三九一)に足利尊氏に滅ぼされて多摩郡矢野口村から落ち込んだものと伝えられている。事実、矢野口村には穴沢天神社が残されており、小名谷戸のうち、国安社の北の山間の畑地は小沢蔵屋敷という地名になっていて、小沢氏全盛の頃、蔵があった。当主左京氏の口ずさむ古歌「あな沢天神はあらたなる熊野とたのむ われはまもらず」の下の句の意味は不明。

※神社画像は穴沢天神社(稲城市矢野口3292)、風土記「多磨郡矢野口村」国安社、小澤蔵屋鋪の項、小沢城址(川崎市多摩区菅仙谷1-5)
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⑤菊池山哉『長吏と特殊部落』P212
 南多摩郡、稲城村、矢ノ口、□□
 ○渡守と思はれる、多摩川岸邊に存する。対岸は布田郷又は國府である。此方は中世の稲城の庄であり、鎌倉初頭稲毛三郎の本貫地である。多西郡の最東端、橘樹郡との郡界に存する。
 ○白山神。
 ○河原の少しく小高い地、民家十四戸ばかり、耕地がないが、密集の観がある。農業が主で、藁細工をして居る。
 ○今の街道は江戸方面へ向いて居る。今渡しは無い。見るところ江戸初期以降の姿で、其前へは上らない。然し「太平記」正平七年金井ヶ原人見ヶ原の大合戦に、足利尊氏方の一隊が、矢野口へ廻つた事を書いて居るから、此地の古い事は慥かである。ただ多摩川河心移動の歴史を考へると、川岸の古事は、軽々しく断ずるわけには行かない。
 ○下流六郷方面にも矢口の渡しがあり、其處にも渡し曲輪があつた。「神霊矢口ノ渡し」の噸兵衛が夫である。矢ノ口とは谷の口で、谷とは耕地ともならない沮洳(そじょ)の地を言ふ、野口と同じ義である。


⑥地区調査表(昭和10年3月末):稲城村 戸数14 人口93 主業日稼 副業農業
部落職調査表