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【地域史】「聖代の御代(“みよ”の”みよ”)」には獣神きりんが出る「きりんど橋(聖代橋)」…機知に富んだ伝承を持つ愛甲郡厚木村長吏小頭「聖代橋七郎兵衛」直轄支配の地 ★2023/10/26(木)19:05 2023/10/26

2005年師走までに取得したデータに基づく史料


①聖代橋(きりんど橋)(厚木市旭町3-19)
長吏小頭「聖代橋七郎兵衛」直轄支配の曲輪にあった厚木用水に架けられた橋の現在の名だ。

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渡辺崋山の厚木六名勝に描かれた桐の絵にもあるように、明治中期に石橋に架け換えられる前までは「桐辺橋(きりべ橋)」と呼ばれていた。
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石碑にはこの橋の歴史がわかる由緒が刻まれている。
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 「一七〇年程前、ここを訪れた六部(行脚僧)が浄財をもって石橋にし明治中期架け換えるに際してきりんど橋と称した。
古老の話によると聖代の御代には神獣きりんが出ると称してきりんど橋と唱え、きりんど橋と呼ばれるようになった。」

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複数の掛詞を見ると機知に富んだ伝承だ。
①聖代の御代…聖代と御代いずれも「みよ」と読むことができる
②きりんど橋…空想上の獣「神獣の麒麟」が出ると言われていたため麒麟と桐が掛詞になっている
③聖代と麒麟と桐…きりんど

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桐堤の賞月(どうていのしょうげつ) 檀家甘人
 桐を植える きりべの堤 四季を連ねて 月が良い

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②新編相模國風土記稿~愛甲郡厚木村
 矢倉澤往還の村驛にして夫馬の継立をなせり~~皆當所より四分し、各行李を輸致せり、北條氏分国の頃煤ヶ谷炭を此地より小田原へ運致すべき由、幸田某奉りて當所より小田原迄の宿々に下知す、其傅馬の印状今煤ヶ谷村の民蔵す~~されば此頃既に郵驛たりしこと知らざる、今も繁富の地にして民の家居も三百三十戸外長吏八戸に及び、多く通衢櫛比し農商相半す

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③金刀比羅宮(厚木市旭町3-9-2985白山神社跡地)
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 狛犬奉納者 昭和五十三年十一月吉日
 森・寺山・聖代橋・伊藤・橘川・大澤・大久保・早川・小俣・小瀬村・松尾・井上・浅岡・北條・島崎・横井・酒谷

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街中だったせいか、曲輪は明治維新の頃よりも南側(駅から離れる方角)に移動させられたため、元の姿はわからない。
曲輪の土着姓の聖代橋、伊藤、酒川、酒谷姓の家は全てある。
早くから融和が進み、1960年代後半、聖代橋家から厚木市副市長が誕生している。
聖代橋家は、江戸時代の身分制度が禍いしただろうが、伝承を見てもわかるように、有能な家系だったと思う(私的感想)。
なお、曲輪界隈には、市内の岡田と下古沢、伊勢原市石倉と坪ノ内からかなり多くの入植者が見られるが、部落繋がりで入植したか甚だ疑問と思っている。
駅近くの都会だから入ってきただけのように思える。
その理由は、聖代橋、伊藤、酒の字をこの曲輪以外でお目にかからない。
まるで中依知や赤塚の曲輪をみているように、他の部落と交流が見られないからだ。

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④菊池山哉著『長吏と特殊部落』P166
※この項には誤字なのか、山哉のミスなのか、間違いがある
誤植を訂正すると、酒井→酒川又は酒谷、伊東→伊藤
聖代橋の由緒に係る検証(ヒアリングの精度)も甘い。桐辺橋という江戸時代の呼び名などを知らないで踏査したからだろう。


 ○ここは中原街道と、上古の海道と、江戸時代の大山街道の交差点である。曲輪は町の中心となって何れが何れとも分からない。維新前は郵便局前に居ったが今は南端に移された。移った時に、白山神社丈を残して来たので、老人連は参詣やら、仕守りやらに通ったものと云。白山神社は相当なものである。昔は猶立派なものであったが、鍵取りに酒飲みが出来て、売却したと云、境内には別に大きな大日堂もあったと云。
 ○農業が多いが、工商、日稼人種々である。十六戸ばかり。
 ○この曲輪をキリンドと呼んだと言うが、木戸から生じた訛りか定かでない。曲輪に聖代橋と言う姓が大分ある。妙な名と思って尋ねたら、下手に聖代橋という橋があり、其の人達は元其処に居ったからの名と言う。他は殆ど酒井と伊東姓である。帰するところ二つの曲輪が一ヶ所に集まったらしい。元地でない限り既往を考えるに由ない。

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