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【地域史】日本最古の上水道”神田上水”~巻石通り(水道通り)・紙漉き(印刷・出版・文豪)の町・徳川慶喜公終焉の地 ★2018/5/23(水)7:44 2018/05/23

上水道の発祥


水道端
現在の文京区水道1丁目と2丁目を含む領域。
日本最古の上水道である「神田上水」についての記載がある。
日本の”水道”の起源です。
徳川家康の江戸入城後、家臣の大久保忠行(通称は「藤五郎」「主水」)に開発させた上水道であり、もとは小石川上水と呼ばれた上水道は、その後発展し神田上水となった。
家康は藤五郎の功績を讃え「主水」という名を付与した。
水が濁ることを嫌う家康から「モンド」ではなく「モント」と発音するよう命じられた。
神田上水は明治11年頃、アーチ状に積んだ石で蓋をされてしまった。

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巻石通り沿いには神田上水の旧白堀水路跡がある(東京都文京区小日向2-16-15文京総合福祉センター)
文京総合福祉センターの敷地内で、その遺構が見れるようになっている。

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写真は巻石通り(水道通り)。
江戸川橋方面を背にして、小日向・春日方面を撮影。
左は文京総合福祉センター。

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遺構エリアの上空写真と、今昔の重ね合わせ図によって、上記の遺構が現在のどの箇所に該当するか図解化されている。
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遺構に関することが、以下の画像2点に詳しく書かれている。
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「東京市史稿上水編」を元に断面図を作成したものが上記画像の図6に見られる(以下、図6拡大)。
川幅は3mあったようだ。
石蓋のイメージ図(=線部分)でわかるよう、石をアーチ状に巻いて積んだことが、「巻石通り」の由来である(明治11年頃)。
文京総合福祉センターの反対側にあたる部分(現在の歩道・道路部分)の調査は行われていない。

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第六天町には、徳川家最後の将軍である徳川慶喜公終焉の地(東京都文京区春日2-8-9 国際仏教学大学院大学内)がある。
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慶喜公は、神田上水の給水が完全に停止した明治34年、大久保長門守下屋敷跡に移り住み、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。
屋敷跡は国際仏教学大学院大学に引き継がれており、校舎には慶喜邸時代からの大銀杏が茂っている。

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徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭の7男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、一橋徳川家の家督を継ぎ、後見職として将軍家茂を補佐した。
慶応2年(1866)に第15代将軍職を承継したが、翌年大政を奉還し、江戸城を明け渡した。
恭順の意を表し、水戸で謹慎した後、駿府に隠棲した。
明治30年(1897)には東京に戻り、明治34年(1901)にこの地に移り住んだ。

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巻石通り。
右手が慶喜公終焉の地。

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遠野物語の話者 佐々木喜善旧居跡(東京都文京区水道1-1-8トッパンホール裏)。
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この地域が印刷・出版・文豪の町となったのは、神田上水と並行する江戸川(旧称)の石切橋から上流が清流であったため、紙漉き場が発展したことに起因している。
※江戸川は、江戸川公園周辺の神田川の昭和40年=1965年までの呼称であり、江戸時代は御留川と呼ばれた。

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