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【日常】目黒区転出から満26年 ★2023/2/10(金)15:03 2023/02/10

26年11か月在住・生活してきた目黒


目黒在住約27年
目黒から離れて26年。
うーん…


目黒区地域史を題材にした人気ブログシリーズより転載(2019/5/17発出)
【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】序章 27年過ごしたマンション目黒苑と松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷(富士山・丹沢大山・秩父連山を一望した絶景スポット)

http://www.nihombashi-sr.com/history


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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡

松平主殿頭上空地図
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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《資料》肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒1丁目界隈(安政3年実測復元地図)

肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒一丁目界隈(安政3年実測復元地図)

《資料》肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒1丁目界隈(明治40年前後復元地図)

肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒一丁目界隈(明治40年前後復元地図)

《資料》肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒1丁目界隈(平成15年地図)

肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒一丁目界隈(平成15年地図)
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【序章】27年過ごしたマンション目黒苑と松平主殿頭千代ヶ崎抱屋(富士山・丹沢大山・秩父連山を一望した絶景スポット)

昭和46年春から平成9年2月上旬まで、約27年間暮らしてきた目黒(目黒区目黒1-3)。
平成31年2月27日、毎日新聞出版『週刊エコノミスト』編集部記者と、4月1日発売号への寄稿記事に関する打ち合わせをした際、ふとしたことから、出身地目黒のことが話題となった。
「そういえば、私が住んでいたマンションは、急勾配の坂の上にあったのですが、松平氏藩邸の敷地内だったんですよ」と伝えた。
すると、当該記者から「松平にも色々あるから。どこの松平氏?」と質問を受けた。
2013年秋、大鳥神社に行ったとき、旧藩邸の敷地内から隠れキリシタンの灯籠が発見されたことを知り、長崎に関係している大名であることは認識していた。
当該記者との会話がきっかけとなり、今の家(豊島区)に引っ越してから10年以上の間、ずっと収納場に仕舞い込んできたデジタル古地図(株式会社エーピーピーカンパニー『江戸明治東京重ね地図』)を引っ張り出してみた。
現在、目黒に行く頻度も少なくないので、当時の目黒での生活圏に関する郷土史を調べ始めた。
すると、興味深い史実が判明し、三田用水の暗渠をたくさん発見することになった(以下①~⑨には、当時から知っていたことを含む)。
①私が住んでいたマンションは、肥前国島原藩松平主殿頭の2万坪を誇る抱屋敷(千代ヶ崎抱屋敷)の敷地の一部だった
②大正時代、抱屋敷の敷地内から隠れ切支丹灯籠が発見された
③抱屋敷には、歌川広重の浮世絵に登場した千代ヶ池と『絶景観』と呼ばれる別荘があった。
④抱屋敷は、中目黒村、下目黒村、三田村、上大崎村の四村入会だった。
⑤抱屋敷の中を三田用水が通過していた(目黒1丁目は暗渠の宝庫)。
⑥パレス三條(1969年1月竣工のマンション)の入口の碑文は、三條實美(さんじょうさねとみ)のモニュメントだった
⑦久米美術館の意義は、明治時代に抱屋敷の土地の一部を所有した久米邦武に由来していた
⑧小名「千代ヶ崎」の行政区分の変遷
⑨火薬運搬軌道の存在
など。
27年間過ごした目黒について、肥前国島原藩主松平主殿頭を中心に、古地図や史料、現地写真などを織り交ぜてブログに纏めてみた。
《参考》
私が生活したマンション目黒苑(目黒1-3-23、1966年5月竣工)はこの坂上にある。
マンション1階の高さ位置については、これだけ登っても、丘の上にあった千代ヶ崎抱屋敷の中腹くらいの地点に過ぎない。
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バブルを迎えるまで、斜面には崖が残っており、バッタやイナゴ、蟻地獄なども生息していた(土砂崩れの危険性が問題視され、管理組合の決定でコンクリートブロック化された)。
苑内には自然の木々も沢山繁っていたので、ネズミモチの木には、たくさんのライポン(キグマ)がやって来た(住民の反対で伐採されてしまった)。
夏になると青大将(蛇)が出没し、驚かせられた。
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なお、マンション屋上から、富士山、丹沢大山、秩父連山の見晴らしがよくて、特に秋・冬の夕方には、当時、地元の友人や、交際していた人とよく眺めた(富士山はマンション目黒苑の坂上からも見えた)。
この画像は富士山と反対側の東の方角(東京タワー側)を背景にして、マンション屋上の最上部で平成元年秋に撮影。
千代ヶ崎抱屋敷の頂上地点は、テニスコート付きの東京営林局だったが、このとき既に退去して更地になっていますね。
時代はバブル期です。
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富士山の景観は、目黒川目黒新橋沿いに、10階建ての伊藤忠燃料ビル(現在のオリックス目黒ビル。次の画像の建物)が建ったことで見れなくなった。
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こちらは、上記画像で写し出された、千代ヶ崎抱屋敷の頂上地点から撮影したもの。
この頂上地点の、目黒新橋の地点との標高差は推定で建物14階分に相当する。
よくよく調べたら、松平主殿頭の抱屋敷は、海抜30~45mの高低差が激しい台地「淀橋台」の南西の端に位置していた。
動画中、真下はマンション目黒苑の建物までの上り坂(坂の頂上と目黒新橋との標高差は推定建物10階分)。
右手はマンション目黒苑(目黒新橋と屋上の標高差は推定建物20階分)。
障害物がなければ、高台の絶景スポットだったことがわかる。
正面の反射ガラスの建物が、富士山の景観を棄損した10階建て元伊藤忠燃料ビル。
千代ヶ崎抱屋敷頂上からも見るのは不可能。
このビルの両サイドには、その後、このビルよりも遥かに背が高い高層ビルやタワーマンションが並んでしまい、残念でならない。