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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第4章 三條實美と久米邦武~元肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷領地の一角に在住した有力者たち 2019/05/21

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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡

松平主殿頭上空地図
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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【第4章】三條實美と久米邦武~元肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷領地の一角に在住した有力者たち

1.公家出身”梨号”三條實美とパレス三條の碑

三條實美は公家出身の政治家。太政大臣を経て、内大臣のときに、黒田内閣総辞職に際して、2ヶ月間、内閣総理大臣を兼任した(臨時内閣だったため、歴代の内閣総理大臣の中に名を連ねていない)。
天保8年2月7日生、明治24年2月18日55歳没。
葬儀は国葬で行われた。
爵位は「公爵」。
三条実美
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三條坂の中腹にある「パレス三條」(昭和44年1月竣工)の入口には、昔から、とある碑文(目黒区目黒1-2-7パレス三條)が建っていた。
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自家君梨堂公即卋三年於慈美不肖公美爾
閲遺書獲此文於故紙中筆塗抹勲竄而手筆
所草不敢改一字建石奉物以傳卋後云
明治二十六年三月 公美拜識
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碑文下段1行目「梨堂」とは三條實美の雅号(別名「梨木誠斎」)である。
実美の遺書の中で「勲」という一字が筆で塗り潰されていたが、敢えて訂正しないで、石碑で後世に伝えていくということだろうか。
なお、上段は恐らく遺書をありのままに転記したのだろうが、何と彫られているやらさっぱり読めない(;´д`)
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坂の頂上の三條實美邸宅跡にはホテルが建っている(品川区上大崎2-23-7)。元の名称は「ホテル三條苑」であったが、現在は経営者が在日朝鮮人の女性に代わり「ホテルプリンセスガーデン」に改称されている。世間にはメディアを通じて、黒い噂ばかりが出回っている。
当たり前のことだが、こちらには三條實美の記念碑はない。
私的には、旧三條邸という事実だけがホテルの宿泊勧誘に利用されているに過ぎず、遺構としての価値はゼロと思う。
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2.『神道ハ祭天ノ古俗』”易堂”久米邦武

久米邦武は肥前佐賀藩士出身であり、近代日本の歴史学の先駆者。
雅号は「易堂」
天保10年7月11日生、昭和6年2月24日没(享年91歳)。
三條實美とは僅か2歳違いでした。。。
しかも、公家出身の三條實美とは対極にいる人物。
久米邦武
久米邦武は、特命全権大使岩倉使節団の一員として1年9ヶ月に及ぶ海外視察を通じて、『特命全権大使 米欧回覧実記』全100巻を編集し、政府から報奨金500円を受け取った(明治時代の1円の価値を現代に換算すると3,800円程度の価額になる)。
久米邦武は、報奨金の一部を軍資金にして、江戸時代に千代ヶ崎抱屋敷に属していた土地のうち南側の部分を購入した。
なお、彼は明治25年に田口卯吉が主宰する『史海』に転載した論文『神道ハ祭天ノ古俗』の内容(要約すれば「神道は教条的な宗教ではなく自然崇拝に属する習俗に過ぎない」という解釈)が、当時、神道の国教化を画策していた神祇官から糾弾され(久米邦武筆禍事件)、帝国大学教授を辞職している(神仏分離令を発令して廃仏毀釈を主導したのは神祇官だった)。
現在、目黒駅西口には久米ビル(品川区上大崎2-25-5)という名の建物があり、プライベート美術館である久米美術館が所在している。
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一方通行の目黒通りのバイパスも久米邦武のお屋敷の一部だった。
右が久米ビル。
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権之助坂商店街。
左手にあるエイブルがテナントのビルと、その右隣のビルの間には、起伏のある謎の抜け道があった。
千代ヶ崎抱屋敷の西の最南端にあたる。
旧久米邸宅も同様。
10代の頃まで、左手は創業者時代のらーめん田丸、右隣は古本屋だった。
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