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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第5章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂Ⅱ~金毘羅坂(廃仏毀釈運動の犠牲になった金毘羅大権現社・別当寺曹洞宗鳳林山傳燈院高幢寺) 2019/05/21

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《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸)

《資料》明治40年前後実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸・平成)

《資料》明治・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治・平成)
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【第5章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂

2.金毘羅坂(廃仏毀釈運動の犠牲になった金毘羅大権現社・別当寺曹洞宗鳳林山傳燈院高幢寺)

①由来
金毘羅坂は、目黒通り沿い大鳥神社方面に下る坂をいう。
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かつて下目黒村小瀧(現在の目黒区目黒3-11~14付近)にあった金毘羅大権現(別当寺曹洞宗鳳林山傳燈院高幢寺)を由来としている。
ところで、目黒区が建てた碑に違和感がある。
方角の説明がおかしい。
目黒駅方面を「北」に見据えているが「東」である。
従って、金毘羅権現社が「北」、元競馬場が「南」。
区の設置した案内板の訂正を、先程から何度していることか・・・
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②金毘羅大権現社
麦打歌に歌われた「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」
大鳥は大鳥神社、不動は目黒不動、金毘羅は高幢寺が管理した金比羅大権現社のことである。

長谷川雪旦の挿絵「 金毘羅社(こんぴらのやしろ)」
左上「表門」、中央下「裏門」。
裏門の階段を上がり右に「かぐら所」「釈迦」「地蔵」の順に進むと「拝殿」があり、その後ろが「本社」(一番右)がある。
拝殿の左が「高幢寺」。
《資料》長谷川雪旦「金毘羅社」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
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③廃寺
神道国教化を推進する政府の神佛分離令(慶応4年)と大教宣布(明治3年)によって廃仏毀釈運動が起こり、仏教弾圧が行われた結果、多くの寺院、仏像、経卷など貴重な日本の文化財が破壊され、寺社領上知令によって境内以外の寺社地が没収された。
高幢寺も薩摩藩主島津家の庇護を離れ、明治32年に廃寺となった。
写真はかつて境内があったエリア
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《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡下目黒村「金毘羅大権現・別当寺高幢寺」
下目黒村③

下目黒村④
○高幢寺
境内年貢地一万坪。村の北によりてあり。
曹洞宗山城國宇治田原禪定寺末、鳳林山傳燈院と號す。
昔、當所、鳳林庵といへる庵室ありしが正徳年中、高峯和尚と云もの此庵に住せり。
その頃、神奈川宿金蔵院の境内に傳燈院高幢寺といへる廃寺あり。
高峰それをここにうつし、庵を改め一宇の寺院とす。故に庵號を以て山號とす。
高峰、俗姓は源、氏は大田、名資尊、圖書資頼が子なり。
貞享二年正月二十八日、年十一にして薙染し加州大乘寺に入て參禪し、後諸國を遍歴す。
高峰嘗て金毘羅を信じて一堂を起立すべき志あり。年を歴ていよいよ志あつかりける。
後、此處に来り其願を遂たり。依て終焉の地と定めこの構營あり。
又、大岡越前守、寺社奉行たりし頃、七堂伽藍建立の願も許されしかと、未造立のことに及ばずして寛延三年七月十九日、八十二歳にして入寂す。

金毘羅權現社
境内にあり、三間に七間、幣殿三間四方、拝殿七間に三間、向拝三間四方、東に向う。
金毘羅權現の五字を扁す。神像は木像、作知れず。長一尺五寸。
祭禮年々十月十日、神樂を奏す。
御城鎭護の神と仰ぎ、九條家より鎭護社の三字を賜はり、今寺に納む。
又、辨天の像あり、長五寸餘、厨子の中に安じて堂中にあり。神奈川高幢寺に傳へし舊物なり。寺傳に云、高峯常に此の辨天を信ず。一日坐禪の間、一睡を催す。
時に霊夢を蒙り、多年の応願成就の期至れり、その證として一銭を賜るとみて、夢さめたり。
高峯、奇異の思をなし、懐中を探るに果して一銭を得たり。高峯歡喜浅からず。
程なく當社を建立しける後、錢をば錢婆神と崇め今に社壇に安ずと云う。

地藏堂
表門を入て左にあり。一間に九尺、木像立像長三尺、空海の作、地藏を本尊とす。

本地堂
表門を入て右にあり。三間半に二間半。金毘羅の本地正觀音の木像を安ず。長一尺許、岩石の上に踞す。此餘、釋迦、及び十六羅漢、摩訶迦葉、達摩の諸像を安置す。

首尾辨天勝利大黑正一位小瀧稻荷合社
裏門の内石階の下にあり。二間に二間半。神體は何も木像なり。社前に鳥居を立、爾柱間六尺。

曾根松
根の廻、二圃許。

難波梅
古木は枯てなし。跡へ同種の木を植てあり。
此の二本の由来、詳ならざれ共、當地の名木と称して世人もてはやせり。何れも本地堂後林中にあり。

石鳥居
爾柱の間九尺

中門
鳥居の外にあり。柱間二間許。

石鳥居
中門の外にあり。柱間二間。

表門
石鳥居より十五歩ばかり隔てあり。爾柱の間二間、南に向う。

===参考資料===
『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)

『新編武蔵風土記稿』

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「金毘羅社」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)

高幢寺・金毘羅大權現(曹洞宗大本山永平寺御直末東川寺ホームページ)

===バックナンバーリスト===
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