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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第5章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂Ⅳ~”ガッカリ名所”茶屋坂の検証 2019/05/22

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講演

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東京都知事小池百合子さんにテレビで紹介されました!

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【第5章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂

4.”ガッカリ名所”茶屋坂の検証

①旧茶屋坂の原形と爺々が茶屋の位置の検証
「茶屋坂と爺々が茶屋」
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝生の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。
平成3年3月
目黒区教育委員会
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上記説明によれば、茶屋坂(以下「旧坂」という。)は、かつて「大きな松の生えた芝生の中をくねくねと下るつづら折りの坂」だった。実際に古地図を確認すると、坂の中腹から頂上にかけて、かなりくねくねしていることがわかる。
《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(茶屋坂)
茶屋坂(江戸)

《資料》明治40年前後実測復元地図(茶屋坂)
茶屋坂(明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(茶屋坂)
茶屋坂(江戸・平成)

現況写真を使って説明していく。
以下の写真は、旧坂の中腹から撮影した。
右手に案内標が建つ。
“おかしなところ”に。。。
現在の頂上へのルートは、写真の方向に直進し、突き当たりで左折し、そのまま道なりに真っ直ぐ坂を登り詰める。
かつての名所は、自動車を走行可能にするために、元の地形がいじくり倒されており、全く原形をとどめていない。
由緒ある場所の割には、目黒区が歴史保存を怠った結果、「ガッカリ名所」となった。
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案内標転載
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茶屋坂
江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。
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坂の突き当たりで撮影。
傾斜のついた坂を左に曲がるのだが、これも当時はなかった道だ。
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旧坂の中腹に戻る。
中腹から左方向を撮影した。
左折したこの道こそ、元のルートである。
写真のように、道幅は広くなっているが、正規の道が残っている。
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そのまま左に進んで、最初の交差点を右折したところは登り坂。
この写真の左の建物の中をくねくねと抜けて登って行くのが正規ルートである。
したがって、どうせ案内標を建てるなら、こちらに建てるのが筋である。
目黒区の役人が何も調べずにテキトーなことをやった結果、”おかしなところ”に案内標が建てられたのだ。
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旧坂の頂上(右の坂)。
正確に言えば、当時の役人が自動車の利便性を追及してわざわざ地形を壊した結果、現在の”頂上”となってしまった地点。
因みに、写真左手の道には、新茶屋坂(以下「新坂」という)の隧道を通過した三田用水が日の丸自動車教習所方面に向けて流れていた。
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その隧道も新坂拡幅のため、平成15年に撤去された。
真相を言えば、目黒区は「管理に金(区民税)がかかる」という口実で、反対派に対して、新坂拡幅の理解を求めた。
交通量の少ない道路(新坂)を拡幅する必要があったのかね?(呆)

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隧道が撤去された跡。
江戸時代、道は向こうまで繋がっていた。
新坂開削のため、どれだけ地形を破壊したかよくわかる。
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金八先生、刑事物語の時代、武田鉄矢氏在住の地から、現代の旧茶屋坂頂上付近まで撮影。
三田用水(暗渠)がこの道と並走していた。
勿論、フェンスの向こうまで陸続きの道があった。


繰り返すが、フェンスの右下にある新坂は、地形を削って新たに通した道。
ここは陸続きだった。
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新坂の頂上と現在の旧坂の頂上の中間(旧坂寄り)から、旧坂の頂上方面を撮影した。
この撮影地点に、新坂に地続きとなる形で「爺々が茶屋」があった。
歌川広重がスケッチした付近の写真である。
更に、私の子供の頃の記憶が正しければ、新坂と並行し、旧坂の延長にある道も、目黒台スカイマンション(昭和54年竣工)の建設に際して、改良されているはずだ(道の真下はマンション駐車場へのスロープトンネルになっている)。
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初代歌川広重の描いた浮世絵における茶屋坂と爺々が茶屋の風景。
今では、何ひとつ面影がない。
よく見たら右に行く道がある。
新茶屋坂のため掘削され消滅した道だ。
《資料》初代歌川広重「目黒爺々が茶屋」(安政4年、名所江戸百景 江戸百景)
歌川広重「目黒爺々ヶ茶屋」(名所江戸百景)

②爺々が茶屋を訪れた徳川将軍
旧坂の坂下より撮影。
左が旧坂、中央が茶屋坂街かど公園、右奥の宅地が「茶屋坂の清水」跡地になる。
更に言えば、右手には、三田用水白金分水路が通っていた。現在は暗渠の上に家が建っており、見てもわからない状態である。
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茶屋坂街かど公園(目黒区三田2-15-15)
「茶屋坂の清水」の碑がある。
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以下、案内板を転載する
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茶屋坂の清水と碑によせて
落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田二丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。
この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら涌き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。
こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。
その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一角にあった水交園の管理人夫妻が清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。
その後、清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として、付近の人々の命を救ったのでした。
この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。
目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。
平成7年3月 目黒区 土木部公園緑地課
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「残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています」
よくもまあ、よってたかって、跡形もなく壊したものだ。
爺々が茶屋については、風土記でも取り上げられている。
以下、「小名 味噌下」の項を転載する。
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澁谷村の方へ寄てあり、御遊獵御立場の邊なり、此所に茶店あり、一軒茶屋と云、土俗爺が茶屋と呼て、世に聞えたる茶店なり、御遊歴の時も、茶肆を開き、茶具を設け置を常とすと云り
※「肆」は「みせ」と読む(品物を並べたお店)
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡中目黒村「小名 味噌下」
荏原郡中目黒村(味噌下)
この地の由緒を示す各々の説明書の中で、私の目をひいたのは徳川将軍の件。
『目黒の坂 茶屋坂・目黒のさんま』(目黒区ホームページ)では、”暴れん坊将軍 徳田新之助”こと8代将軍徳川吉宗公に係る出典を明らかにしている。
新さん。。。
徳田新之助
後日(2019年8月5日再放送)、テレビ朝日”おはよう時代劇”『暴れん坊将軍Ⅲ』(第42話「悲願成就、半次郎のいのち」)で、落語「目黒のさんま」将軍と爺が茶屋の島村彦四郎とのエピソードが採用されていてビックリ!
吉宗「久しぶりの酒はうまいが、このサンマはいかんな」
孫兵衛「さようでございますか?そのサンマは房州沖で獲れました本マグロでございます。それに、脂を抜いて焼いておりますので、お口に合うと思いましたが」
吉宗「いや、いかん、いかん。サンマはやはり、目黒に限る」
孫兵衛「目黒、、、目黒?はて、どこの港でございますか?」
大岡越前守忠相「はははははは」
吉宗「はははは」
※落語では房州沖が「銚子沖」とされている


島村家所蔵『古文書―御成之節記録覚―』や『一軒茶屋の図』の中から、元文3年(1738年)の猪狩りの折りに、吉宗公が茶屋場に立ち寄ったときの、将軍と彦四郎とのやり取りが紹介されている。
なんでも、島村家の子孫は、明治維新で世情が混乱の頃、茶屋場が度々泥棒に見舞われため、目黒2丁目(目黒区民センターの領域)に移転しているという。
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「藤の花は、咲くか咲かないか」
「少々、20房から30房ばかりですが咲きます」
「花は長いか短いか」
「野藤なので短こうございます」
「どのくらいの長さか」
「せいぜい7寸から8寸でございます」
「野藤ゆえ、そうであろう」
※「目黒のさんま」の作り話は以下リンク参照。
目黒の坂 茶屋坂・目黒のさんま(目黒区ホームページ)
次の画像は、2015年9月6日、目黒のサンマ祭りのときに撮影した目黒通りJR目黒駅東口(上大崎村永峯町)。
サンマを焼いた煙が立ち上る。
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===参考資料===
『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)

『新編武蔵風土記稿』

目黒の坂 茶屋坂・目黒のさんま(目黒区ホームページ)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所江戸百景 目黒爺々が茶屋(絵師:広重)

===バックナンバーリスト===
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