【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第2章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷Ⅱ~千代ヶ崎の由緒と小字名の変遷・衣掛松と絶景観・千代ヶ池の周囲を通過した三田用水暗渠 2019/05/18
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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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【第2章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷
5.千代ヶ池
①千代ヶ池の位置
千代ヶ崎(目黒区三田2-10-31三田公園)
JR目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向かう目黒川沿いの台地は、かつて「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前国島原藩主松平主殿頭の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かつて「千代が池」という池がありました。これは南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投じた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来といれています。
平成22年3月 目黒区教育委員会
案内板の補足事項が2つ。
まず、小名「千代ヶ崎」は、江戸時代には「荏原郡三田村」の小字名であったが、明治期には、行政区分上、JR目黒駅・恵比寿駅区間の西側のうち、現在の品川区上大崎2丁目に該当する地域がそう呼ばれた。
その昔「上大崎村永峯」と呼ばれたエリアを含んでいる。
また、千代ヶ崎抱屋敷のうち上大崎2丁目以外のエリア(三田2丁目・目黒1丁目)の小字名は水道向とされた。
《資料》昭和5年 東京府荏原郡目黒町全図目黒地区(川流堂 小林又七発行)
以下、風土記中「松平主殿頭忠侯抱屋敷の邊を云」。
その他には、千代ヶ池の由緒が記されている。
※松平忠侯の藩主在位は文政2年(1819年)~天保11年(1840年)。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国麻布領荏原郡三田村「小名 千代ヶ崎」
《資料》明治・平成15年重ね地図(千代ヶ崎)
補足の2つ目
三田公園の目黒区教育委員会の案内板にある『江戸名所図会』(1834~1836)より、絵師長谷川雪旦の挿絵を紹介する。
挿絵のキャプションを書き起こした。
キャプションの背後には富士山が描かれている。
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千代ヶ崎
「行人坂の北、永峯松平主殿侯別荘の後ろ、中目黒の方へ少し下がる処なり。初(はじめ)槍ヶ崎といひしを、後に千代ヶ崎と改められしといふ。 主殿侯構ひの旧跡にて池の傍らに衣掛け松といふ或は、新田義興の室、義興矢口の渡しにて最後のこと聞きかなしみに絶えず、 この池に身を投ぐるといへり。絶景観といへるもこの別荘の号なりとぞ。」
《資料》長谷川雪旦「千代ヶ崎」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
上大崎村永峯は、正徳年間(1711~1716)に町奉行支配(墨引)の小名「永峯町」(冠名は白金)となった結果、「永峯」という小名はなくなり、そのエリアも確定された(千代ヶ崎抱屋敷の領地は朱引=代官の管轄下に置かれた)。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国荏原郡品川領上大崎村「小名 永峯町」
権之助坂(永峯町)と行人坂(中目黒町)の間の地域並びに目黒通り沿いJR目黒駅東口両側には永峯町の町屋が並んでいた。
三田公園は、千代ヶ崎抱屋敷の東の最北端(公園内の田道住区センター三田分室が境界線=左手の建物)に位置していた。
「千代ヶ池」のあったところには、現在、目黒台マンション(目黒区目黒1-1-16、昭和43年9月竣工)が建っている。
三田用水は銭瓶窪口(日の丸自動車教習所敷地内)から分水され(白金分水路)、北東側の高台から千代ヶ崎抱屋敷の中を下り、千代ヶ池の外周を北回りして抱屋敷の外に流れ出て、3つに枝分かれして中目黒村(中・下目黒村入会)(目黒区目黒1丁目)の水田地帯に入っていった。
目黒台マンションに行くと、スロープ状に急カーブする三田用水の傾斜(暗渠)が、隣接地との境界線として、そしてマンション駐車場の通行路として残っている。
【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第2章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷Ⅱ~千代ヶ崎の由緒と小字名の変遷・衣掛松と絶景観・千代ヶ池の周囲を通過した三田用水暗渠https://t.co/5wHsE7Ljjc
千代ヶ池跡地の目黒台マンション駐車場2階~1階スロープは三田用水暗渠 pic.twitter.com/2oWzLj5nAi— 暴れん坊将軍徳川吉宗(徳田新之助の『自転車で寄り道の旅』) (@ramenfirst_mtmt) 2019年5月18日
②「目黒千代ヶ池」(浮世絵師 初代歌川広重)
広重の浮世絵
千代ヶ崎抱屋敷にあった千代ヶ池には、三田用水からの引水が三段に折れて落ちる滝があったという。
この浮世絵は富士山を背にして描いた作品である。
《資料》初代歌川広重「目黒千代ヶ池」(名所江戸百景)
広重の錦絵で描かれた千代ヶ池。
「この書前編に千代ヶ崎の真景を図したれど、紙中隘くて池に及ばず。故に今またその池の図を増補して出すのみ」
《資料》初代歌川広重「目黒千代ヶ池」(絵本江戸土産)
こちらは広重の錦絵。
長谷川雪旦と同一の方角(西)、三田用水が通過する高台からスケッチしている。
《資料》初代歌川広重「千代ヶ崎風景(下)」(絵本江戸土産)
===参考資料===
google Earth
『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)
目黒資料 9-1「昭和5年 東京府荏原郡目黒町全図目黒地区(川流堂 小林又七発行)」
『新編武蔵風土記稿』
錦絵でたのしむ江戸の名所 名所江戸百景 目黒千代か池(絵師:広重)
くずし字見ながら歴史散歩 絵本江戸土産(広重)第7編17 目黒千代ケ池
===バックナンバーリスト===
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