【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第3章 目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯Ⅰ~三田用水取水口跡・銭瓶窪口跡・三田用水の碑・三田用水普通水利組合跡 2019/05/20
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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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【第3章】目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯
1.江戸の6大飲用水と三田用水の成立
①江戸の6大飲用水
神田上水 寛永6年(1629年)開設
玉川上水 承応3年(1654年)開設
亀有上水 万治2年(1659年)開設→享保7年(1722年)廃止
青山上水 万治3年(1660年)開設→享保7年(1722年)廃止
三田上水 寛文4年(1664年)開設→享保7年(1722年)廃止
千川上水 元禄9年(1696年)開設→享保7年(1722年)廃止
※下4つは玉川上水からの分水
②三田用水の成立
新井白石に推挙されて江戸の儒学者となり、第8代将軍徳川吉宗の側近として「享保の改革」を補佐した室鳩巣の建議(「江戸の大火の原因が上水によるもの」という、到底あり得ないような理由)が幕府に採用され、神田上水・玉川上水以外の4上水が廃止された。
真の廃止理由については諸説あるようだが、これまで三田上水の余水を灌漑に使用したきた農民が関東郡代・伊奈半左衛門に嘆願した結果、享保9年(1724年)、農業用水としての再使用を許可され三田用水ができた。
写真は玉川上水の笹塚橋から撮影した「三田用水取水口跡」(世田谷区北沢5-34と渋谷区笹塚1-15の間)である。
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三田用水取水口跡(世田谷区北沢5-34と渋谷区笹塚1-15の間 玉川上水 笹塚橋) pic.twitter.com/uUc7hNd7VK— 暴れん坊将軍徳川吉宗(徳田新之助の『自転車で寄り道の旅』) (@ramenfirst_mtmt) 2019年5月19日
三田用水は、玉川上水が枯渇すると取水制限がかけられたため、14村で結成された三田用水の水利組合は、村同士で水の争奪戦が起こらないよう「番水約定」を定め、用水の利用について、利用順序を決める等、各村の取水の公平性を担保した。
千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水は、銭瓶窪口(現在の日の丸自動車教習所の敷地内)で分水された水であった。
この分水路を白金分水路という。
白金分水の流路は、白金方面(東側)に流れた時代、千代ヶ崎抱屋敷を通過し目黒川(西側)に流れた時代、再び白金方面に流れた時代、以上3期に分けて利用されていた。
③銭瓶窪口跡
日の丸自動車教習所のちょうどこの辺りにあった。
千代ヶ崎抱屋敷内には、この辺りから流れ込んだ。
④三田用水跡の碑(目黒区三田1-6-27)
目黒三田通り沿い日の丸自動車教習所前。
かつて銭瓶窪口が設置されていた付近には、三田用水跡の碑と礎石が設置されている。
目黒三田通りを挟み、千代ヶ崎抱屋敷の最北端の東側(三田公園)の対向にある。
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三田用水の碑(目黒区三田1-6-27 日の丸自動車教習所前) pic.twitter.com/yklI5tiowS— 暴れん坊将軍徳川吉宗(徳田新之助の『自転車で寄り道の旅』) (@ramenfirst_mtmt) 2019年5月19日
以下、案内板を転載しておく
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かつてこの地を流れていた三田用水は、寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしています。この上水は、三田、芝、金杉方面の飲料水とするため、玉川上水を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したものです。
享保7年(1722)8代将軍吉宗は、室鳩巣の上水が火事の原因になるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止しました。しかし、三田、上目黒、中目黒、下目黒の目黒4ヶ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代に出され、享保9年(1724)に農業用の三田用水として再開されました。
以後、三田用水は豪農等で組織された用水組合により管理されました。
農業の他に水路が淀橋台と呼ばれる大地上を通るので、大正末頃まで台地の下に水車を設置した製粉・精米にもさかんに利用されました。また、明治末頃からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられました。
戦後は急速な都市化により水質も悪化し、わずかにビール工場の洗浄用水などとして、細々と用いられていましたが、それも不要となり、昭和50年(1975)にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じました。
下の石は三田用水の木樋(もくひ)の下に設置された礎石(そせき)です。
平蔵9年3月 目黒区教育委員会
⑤三田用水普通水利組合跡(品川区上大崎2-17-3)
目黒三田通り沿い、JR目黒駅西口の近くにある東急ストアの対向に三角の形をした建物がある。
かつての「三田用水普通水利組合」跡である。
三田用水は民間の所有権に属したので、組合が解散すると、土地は売却され、その後埋め立てられ、跡地には、道路や建物が作られた。
なお、組合の建物は千代ヶ崎抱屋敷の東南側に位置する。
対向から撮影。
「はんこ屋さん21」がテナントに入っているビルが三角の形をしたビルである。
===参考資料===
google Earth
『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)
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