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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第5章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂Ⅲ~行人坂と太鼓橋(一円相唐橋)・椎の木・夕日の岡(初代・2代目歌川広重と初代歌川国貞と長谷川雪旦のスケッチとともに) 2019/05/22

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【第5章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂

3.行人坂と太鼓橋(一円相唐橋)・椎の木・夕日の岡(初代・2代目歌川広重と歌川国貞と長谷川雪旦のスケッチとともに)

①行人坂
坂下から撮影した行人坂
急勾配15.6%(8.8度)の坂で、徒歩5分を要する350mの難所。
行人坂は、権之助坂が開通するまでは、人々の往来に重要な役割を果たした。
目黒不動尊に参詣する人々は、白金村方面から上大崎村永峯町(JR目黒駅)までの目黒道(白金通り)を経由して、二子道である行人坂を利用した。
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風土記「荏原郡下目黒村」の項において、行人坂の由緒は次のように説明されている。
《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡下目黒村「行人坂」
行人坂
村の東北の堺にあり、寛永の頃此處に湯殿山行人派の寺ありて大日如來を建立す、依てこの名あり、今坂の中程に大圓寺と云天台行人派の寺あり、是その名残なるべし
下目黒村②


続いて、目黒雅叙園の行人坂の案内板を転記する。
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行人坂
行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624年)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。
その後不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に行人が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。
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それぞれの説明を総合すると、行人坂という名称は、湯殿山の修行者である大海法師が、この地で大日如來(天台宗大円寺)を建立したところ、次第に修行者が集うようになったことが由来ということだ。
ところで、大円寺は、母が亡くなったとき、入院先の厚生中央病院からの紹介を受けて、その葬儀を行ったお寺である。
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浮世絵師の歌川広重(初代・2代目)が浮世絵を残している。


《資料》初代歌川広重「目黒行人阪之図」(広重東都坂尽)
歌川広重「目黒行人阪之図」(広重東都坂尽)

《資料》2代目歌川広重「行人坂」(江戸名勝図会)
歌川広重②「行人坂」(名所江戸百景)


2代目歌川広重・初代歌川国貞「目黒行人坂富士」は、富士見茶亭という茶屋の付近からスケッチされた。
行人坂と権之助坂の間には浄覚寺という寺があった(下目黒1-1)。
富士見茶亭はその東隣(品川区上大崎4-1)にあった。
現在の三井住友銀行の入るビルが該当する。


《資料》2代目歌川広重・初代歌川国貞「目黒行人坂富士」(安政2年、江戸自慢三十六興 書画五十三次)
歌川広重②「目黒行人坂富士」


長谷川雪旦の挿絵では「富士見茶亭」がスケッチされている。
挿絵のキャプションには、「西南遥にひらけて芙蓉の白峯を望む。風せん雲を掃て正に玄冬の色をあらわすかとみれば、忽然として又姿を失うこと、須臾にして定ることなく、時として其観を改む。実に佳景なり」とある。
※「須臾」は「一瞬」の意


《資料》長谷川雪旦「富士見茶亭」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
長谷川雪旦「富士見茶亭」(江戸名所図会)


秋・冬のシーズンになると、夕方、富士山が見える日がある。
2015年11月28日撮影。
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②太鼓橋・椎の木・夕日の岡(夕日か岡)
目黒新橋から撮影した太鼓橋。
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《資料》長谷川雪旦「太鼓橋」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
長谷川雪旦「太鼓橋」(江戸名所図会)


風土記「荏原郡下目黒村」の項において、太鼓橋の由緒は次のように説明されている。
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一圓相唐橋
行人坂下にあり、目黒川に架す長八間三尺幅二間、石梁なり水涯より石をかさなあけて造る、その形圓なるゆへ此名あり、又太鼓の状にも似たれば太鼓橋とも云、延享年中回圓の僧九州にて此橋の形を見たりとて、その制作にならひて作りしが、欄干いまだ成就せざりしを、後人綴で造作し、寳曆十四年より明和六年に至て遂に落成す、そのことにあづかりしその交名を碑に彫りて橋下に建つ


《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡中目黒村「行人坂と一園相唐橋(太鼓橋)」
下目黒村(行人坂・太鼓橋)


続いて、目黒雅叙園の太鼓橋(椎の木)の案内板を転記する。
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太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により1991(平成3)年11月に完成した。
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風土記によれば、当初の正式名は「一円相唐橋(いちえんそうからはし)」という。
「円を一筆書き(一円相)したような、唐風の欄干のあるアーチ形の橋(唐橋)」という意味をもつ。
延享年間、回円の僧侶が九州で見た橋をモチーフにして作られたという。
モチーフになった橋は、九州のどこの何という橋なのでしょう。
風土記と雅叙園の説明を総合すると、制作期間は、宝曆14年(1764年)から明和6年(1769年)まで約6年を要したという。
始めは木喰上人(もうじきしょうにん=火を通したものは食べずに、木の実や果実のみを食べる修行をする人)が着手したが、橋の欄干がうまく行かす、後に八丁堀の商人達が資材を出し合って造作し、明和6年に完成した。
完成の当時、橋の建設に関わった方々の人名を列記(交名=きょうみょう=)した碑があったようだが、この碑は大正9年の豪雨で流されてしまったのでしょうか。
参考)大円寺所蔵「目黒川の太鼓橋に使用された石材」
現在、石材の一部がベンチになっている。
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続いて、目黒雅叙園の説明にある歌川広重の浮世絵を紹介する。


《資料》初代歌川広重「目黒太鼓橋夕日の岡」(安政4年、名所江戸百景 江戸百景)
歌川広重「目黒太鼓橋夕日の岡」(名所江戸百景)


太鼓橋とともに描かれている椎の木は現存している。
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椎の木の裏は目黒雅叙園。
浮世絵のタイトルにある「夕日の岡」とは、現在の目黒雅叙園を指している。
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次の浮世絵は「東都目黒夕日か岡」。
目黒雅叙園の地は、当時、楓の紅葉が綺麗な景勝地だった。
浮世絵には、目黒川や富士山のほか、目黒不動尊や下目黒町の町並みが描かれている。
この浮世絵は、杉野学園衣裳博物館(品川区上大崎4-6-19)付近(肥後国熊本藩細川越中守抱屋敷の外)からスケッチしたと言われている。


《資料》初代歌川広重「東都目黒夕日か岡」(安政6年、名所三十六景 富士三十六景)
歌川広重「東都目黒夕日か岡」(富士三十六景)


次の長谷川雪旦の挿絵では、下中央に太鼓橋が描かれている。
太鼓橋を渡って行人坂を登っていくと、右手に明神院(左中央)、大円寺五百羅漢(左上)。
夕日の岡は上中央にある肥後国熊本藩細川越中守抱屋敷内(抱地は大崎村と下目黒村地続)が当てはまる。
なお、享保2年10月「抱屋敷構之間取払申侠」により屋敷の長屋塀は存在しなかった。


《資料》長谷川雪旦「夕日岡 行人坂」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)
長谷川雪旦「夕日岡・行人坂」(江戸名所図会)

《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸)

《資料》明治40年前後実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治)

《資料》安政3年・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(江戸・平成)

《資料》明治・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
金毘羅坂・権之助坂・行人坂(明治・平成)


===参考資料===
『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)

『新編武蔵風土記稿』

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊

目黒の坂 行人坂(ぎょうにんざか)(目黒区ホームページ)

錦絵でたのしむ江戸の名所 広重東都坂尽 目黒行人阪之図(絵師:広重)

錦絵でたのしむ江戸の名所 江戸名勝図会 行人坂(絵師:2代目広重)

錦絵でたのしむ江戸の名所 江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士(絵師:2代目広重・国貞)

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊「富士見茶亭」(長谷川雪旦)

中央区立図書館「江戸土産  -富士見茶屋-下(錦絵)」

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「太鼓橋」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡(絵師:広重)

錦絵でたのしむ江戸の名所 名所三十六景 東都目黒夕日か岡(絵師:広重)

歴史散歩 江戸名所図会 巻之三 第七冊 長谷川雪旦「夕日岡 行人坂」(天保5年~天保7年、江戸名所図会)


===バックナンバーリスト===
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