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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第2章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷Ⅰ~目黒にあった2つの抱屋敷と4村入会の意義・江戸幕府による目黒砲薬製造所稼働と千代ヶ崎抱屋敷の領域の縮小及び目黒火薬製造所「火薬運搬軌道」の遺構 2019/05/17

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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡

松平主殿頭上空地図
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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【第2章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷

1.目黒にあった2箇所の抱屋敷

①千代ヶ崎抱屋敷
現在の品川区上大崎2丁目・目黒区目黒1丁目・三田2丁目各々の一部を含む一帯。
明治以降の小字でいうと、千代ケ崎と水道向が該当する。
千代ヶ崎抱屋敷が網羅した地域は
・三田村千代ヶ崎
・上大崎村永峯(正徳年間に町奉行支配「永峯町」となる)
②傳道抱屋敷
目黒区目黒1丁目13番の五角形の部分。
江戸時代の荏原郡中目黒村傳道。
※明治以降、時代に合わせて小字名を「傳道」(風土記より「村の中央より東へ寄れり、或云昔此地に道場ありし故此名ありとぞ」)から「田道」(何れも”でんどう”と読む)へと当て字で変更されている。
《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(松平主殿頭屋敷)
松平主殿守(江戸)
※「三田村 上大崎村 上下目黒村入会」は誤植であり「三田村 上大崎村 中下目黒村入会」が正しい。
※デジタル地図改訂版では「千代ヶ池」(千代ヶ池の絵)が加わっている。
※小名「千代ヶ崎」の位置は切絵図に従ったものと思われるが、茶屋坂を含むこの辺りの小名は「(荏原郡中目黒村)味噌下」(『新編武蔵風土記稿』)である。

《資料》『新編武蔵風土記稿』武蔵国馬込領荏原郡中目黒村「小名 味噌下」
荏原郡中目黒村(味噌下)

2.4村入会

『新編武蔵風土記稿』荏原郡4村で登場する千代ヶ崎抱屋敷
以下『新編武蔵風土記稿』では、千代ヶ崎抱屋敷に係る記述を、次の4村の項で確認することができる。
荏原郡中目黒村(馬込領)
中目黒村
荏原郡下目黒村(馬込領)
下目黒村
荏原郡上大崎村(品川領)
上大崎村
荏原郡三田村(麻布領)
三田村

「入会地」とは、一般に、単一又は複数の村が共有地として、その山林原野を共同で管理した土地である。
そこから得た収益は、各々平等に振り分けられた。
入会地が藩有地ならば、村民は下草永等の小物成(年貢以外の雑税)を納めて使用収益した。
千代ヶ崎の藩邸は幕府拝領の「下屋敷」ではなく「抱屋敷」であった。
要するに、藩主が私費を投じて購入又は借用した抱地であって、その地位が大名であろうと、抱地は年貢の対象とされた。
加えて、中目黒村と、上大崎村、三田村からなる千代ヶ崎の領地は、元々、中目黒村、下目黒村、上大崎村、三田村4村がこの地の山林原野を入会地(共有地)という形式で共同利用してきた土地だった(藩邸内を通過した三田用水も入会の対象だったであろう)。
つまり、千代ヶ崎抱屋敷には、松平主殿頭の支配地の中に、4村との共有地が存在していた。
「藩主がその土地を取得後、元の地権者は立ち退きを余儀なくされる」又は「部外者が藩邸内を自由に出入りすることはできない」と思われがちだが、ここは抱地であるゆえ、藩主が土地を取得した後も、元々の地権者を継続して居住させ、年貢を納めることも可能であったし、地権者以外の者が自由に出入りすることができるエリアも存在した。
なお、享保2年10月「抱屋敷構之間取払申侠」によって、抱屋敷の長屋塀は取り払われている。

3.江戸幕府による目黒砲薬製造所稼働と千代ヶ崎抱屋敷の領域縮小

千代ヶ崎抱屋敷(1672~明治、第一次肥前国島原藩→下野国宇都宮藩→第二次肥前国島原藩)
『深溝世紀』巻七-寛文12年12月条「因老中板倉内膳正重矩、請買目黒長峰之地為別墅、報可」(原文侭)により、寛文12年(1672年)に永峯の地を購入したことがわかる。
2万坪に及ぶ広大な敷地の中に御茶屋を点在させ、地勢を生かした眺望のよい遊興のための施設として使用したことが、文化12年(1815年)頃の屋敷の様相を記した『東京市史稿』遊園篇第三所収「遊歴雑記」(1929年東京市役所)から窺い知ることができる。
従って、千代ヶ崎邸は下屋敷として使用したのだろう。
明治2年発行『東京御絵図』(官版)に「元松平トノモ」とあることから、千代ヶ崎抱屋敷は明治に入ったあとも存続していたことがわかる。
ただし、この地図を見る限り、千代ヶ崎抱屋敷の北側(千代ヶ池を含む)が領地から喪失し、元の領域の半分以下に縮小されているように見える。
安政4年(1857年)、幕府は軍事力増強のため、現在の防衛省目黒地区(目黒区中目黒2-2)に、目黒砲薬製造所を建設した。
《資料》明治2年東京御絵図(官版)
明治2年東京御絵図(官版)
明治政府になってから、新たに小字名”水道向”と名付けられた元千代ヶ崎抱屋敷の領域。
三田用水銭瓶窪口付近(現日の丸自動車教習所)と、その向かい側(元千代ヶ崎抱屋敷に三田用水が注ぎ込むエリア)には、火薬製造に必要な動力を得る目的で水車場が作られた。
そして、明治13年、幕府の目黒砲薬製造所跡地に目黒火薬製造所が完成するまでの間、稼働していたことが「東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件」(明治12年)でわかる。
「東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件」(国立公文書館)

東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件
ここで補足がある(2019/6/7update)
最後の肥前国島原藩主である松平主殿頭忠和(1851~1917、嘉永4年~大正6年)は江戸幕府第15代将軍徳川慶喜公の異母弟であった。
元々、常陸国水戸藩主徳川斉昭の十六男であったが、文久2年(1862)、島原藩の養子となってその家督を継いだ。
文久3年(1863)、海防強化の必要性から軍制改革を断行し、元治元年(1864)・慶応2年(1866)の2回の長州征討には、江戸幕府方として出兵している。
かくして、幕府方として軍制改革に力を入れていたことからもわかるように、千代ヶ崎抱屋敷の領地を軍用に提供したのだろう。
明治2年(1869)、版籍奉還で島原知藩事に就任、明治4年(1871)廃藩置県で知藩事を免官。
明治7年(1874)には東照宮宮司となった。
明治法律学校(現在の明治大学)の有力な後援者となり、明治14年(1881)、数寄屋橋の邸宅(旧数寄屋橋上屋敷)の一角を同校の校舎として提供した。
Tadakazu_Matsudaira_(Viscount)

4.目黒火薬製造所「火薬運搬軌道」の遺構

明治40年前後の古地図より、目黒火薬製造所から線路のようなものが横断していることがわかる。
《資料》明治40年前後復元地図(火薬運搬軌道)
海軍火薬製造所①(明治)
:次の重ね地図を参考にして、自然教育園まで延伸する火薬運搬軌道跡地に実際に足を運んだ。
《資料》明治・平成15年重ね地図(目黒火薬製造所・火薬運搬軌道)
海軍火薬製造所①(明治・平成)
新旧茶屋坂の頂上より撮影。
右手が防衛省目黒地区。
20190515_045226130
小学校から高校まで交流していた友人が住んでいた。
中学では区内の学区分けで、お隣の目黒二中に行ってしまったが、高校の頃にバッタリ会ってから、交流が再開した。
彼は、早々と高校を中退し、東京大学に合格。
すげえ奴だった。
当時の防衛庁社宅にもよく遊びに来たことを思い出した。
そして、ここが軌道のスタート地点である。
20190515_045330024
遺構を探すため、軌道跡地の細道を進む。
20190515_045542963
本日現在、残された遺構はここのみだった。
20190515_045835809
目黒区三田2-5-22(目黒区三田防災街づくり会館の対向)にて、軍用地境界標が埋もれており、かろうじて「陸軍」という碑のみが顔を出していた。
※明治26年、海軍省から陸軍東京砲兵工廠の管理下へ

20190515_045642961

折角なので、線路の対岸=東側の長者丸地区へ足を運んだ。こちら側にも遺構はなかった。
20190515_052821106

20190515_052928322

===参考資料===
google Earth

『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)

『新編武蔵風土記稿』

歴史を訪ねて 三田用水 1(目黒区ホームページ)

深溝松平藩の屋敷地の変遷と屋敷指図(著者: 木村充伸 · 2008)

三田用水研究:錢瓶窪右岸分水と千代が池

歴史を訪ねて 目黒火薬製造所(目黒区ホームページ)

歴史を訪ねて 目黒の水車

『東京御絵図』(官版 明治2年発行)

「東京府下三田村旧水車場地内務省ヘ返付ノ件」(国立公文書館)

===バックナンバーリスト===
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【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第3章 目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯Ⅲ~松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷を通過し3分岐して目黒1丁目に注いだ三田用水の流路①(千代ヶ崎抱屋敷を抜けた三田用水が一直線で目黒1丁目に進入する流路)

【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第3章 目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯Ⅳ~松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷を通過し3分岐して目黒1丁目に注いだ三田用水の流路②(明治40年前後の地図には表示されていない進入経路)

【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第3章 目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯Ⅴ~松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷を通過し3分岐して目黒1丁目に注いだ三田用水の流路③(マンション西目黒苑のグリーンベルトから進入する経路)

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