【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第3章 目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯Ⅲ~松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷を通過し3分岐して目黒1丁目に注いだ三田用水の流路① 2019/05/20
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《資料》【上空地図】松平主殿頭千代ヶ崎・傳道抱屋敷の領域と目黒1丁目を通過した三田用水の軌跡
チェックイン:マンション目黒苑(約27年間暮らした場所)
赤枠:松平主殿頭千代ヶ崎・傳道2抱屋敷
黄線:三田用水本線
水線:江戸時代の三田用水本線と白金分水路長者丸方面
白枠:千代ヶ池
黄緑●:三田用水銭瓶窪口
黄緑線:白金分水路
金点線:現地確認した暗渠
橙枠:旧久米邦武邸
緑枠:旧三条実美邸(正確な範囲不明)
黄▲:三田用水普通水利組合事務所
※千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水は3つにバイパスし、目黒1丁目エリアを潤した。
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【第3章】目黒1丁目を通過した三田用水暗渠地帯
2.目黒1丁目の三田用水
⑤千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水の暗渠化
既報の上空地図をご覧になればわかるように、千代ヶ崎抱屋敷と目黒川(目黒新橋から田道橋)を挟む低地の平坦な土地一帯は、三田用水が碁盤の目のように張り巡らされていた。
このエリアには水田が広がっていた。
三田用水について、明治40年前後の古地図で拾えなかった暗渠も存在している。
目黒区における三田用水暗渠の管轄は文化財課であることがわかったので、都営住宅周辺の暗渠はいつ頃に行われたか質問したところ「わかったら連絡します」と返答された。
寝惚けたことを言っているので「わかったら?いや、あなたが調べる気があるかどうかかの問題でしょ?そもそも文化財担当なのに、資料がどこにあるかくらい把握してないの?」とやり返した。
資料の在りかを把握してもいないし、郷土についてもろくに勉強していない。
これは、目黒に限らず、板橋、練馬、豊島、新宿、どの役所も同類項。
街の歴史の案内板に誤りがあることもざらにある。
こんな無能で不勉強なバカどもが、区民の税金で建てられたお洒落なインテリジェントビルに勤務し、ムダなことで税金を浪費し、当該税金で飯を食う。
公務員は、国、地方ともに、郷土、自然(木々や地形)を破壊することが専門だからね。
さて、目黒一丁目アパート(目黒区目黒1-19~21)は昭和41年から昭和44年にかけて建設された。
千代ヶ崎抱屋敷の丘(地形)を破壊して建てられたマンション(旧三共マンション、旧景観荘、マンション目黒苑、パレス三條、ジャンポール目黒第二、パピヨン目黒、マンション西目黒苑)も、昭和47年までに建てられた(ただし、昭和40年前半に集中している。なお、高級マンションはバブル期を中心に建てられた)。
これら集合住宅の建設時期と時代背景から、やはり昭和39年の東京オリンピックと第二次ベビーブームを境に、都営住宅周辺を流れていた三田用水は暗渠し、マンション建設が進んだものと思われる(事実がわかり次第、記事を更新する)。
次の⑤~⑦では、千代ヶ崎抱屋敷の中を通過した三田用水について、3つにバイパスしたので、3項目に分けて暗渠画像をアップロードしていく。
なお、前提として、三田用水はこの地点で千代ヶ崎抱屋敷を抜けて、3箇所から目黒1丁目の平地(低地)に広がる水田に注がれた。
明治期の小字名は「上耕地」。
松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷と目黒川に挟まれた一帯である。
画像左は目黒台マンションである。
三田用水はこの付近から千代ヶ崎抱屋敷を抜けた。
⑥千代ヶ崎抱屋敷を通過した三田用水のバイパスその1(目黒1-10-13と1-9-1の間)
千代ヶ崎抱屋敷を抜けた三田用水が一直線で目黒1丁目に進入する流路。
交差する左右の細い道は、次項⑥で紹介する進入経路をもつ水路(左はグリーンのシート部分が暗渠箇所)。
肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷を通過し3分岐して目黒1丁目に注いだ三田用水の流路https://t.co/5cttz5RkVb
現在の目黒台マンションから領地外へ
バイパス1つ目は目黒1-10-13と1-9-1の間から目黒1丁目へ
動画途中、2つ目のバイパスとクロスする
緑シートは元々蓋をしていた
痛々しい pic.twitter.com/UhbwrgNE4y— 暴れん坊将軍徳川吉宗(徳田新之助の『自転車で寄り道の旅』) (@ramenfirst_mtmt) 2019年5月20日
暗渠した狭隘な道を抜けると、土地は開けて、都営住宅が広がる。
ここで、右のグリーンベルトと、左の都営住宅方面(暗渠箇所は都営住宅前の芝生)に分岐する。
グリーンベルトに萌え萌え!
発見してワクワクしちゃって。
右のグリーンベルトが三田用水の暗渠だなんて、目黒在住中は全然知らなかった。
勿論、今のように、暗渠に関して場数も踏んでいなかったので、気付きもしなかった。
反対側(グリーンベルト側)から、狭隘な暗渠道側を撮影。
なお、写真正面奥の赤い自動車の辺りが、次項⑥で紹介する別の進入経路をもつ暗渠エリア。
グリーンベルト!(目黒1-18と1-20の間)
グリーンベルトを直進すると、植え込みが途絶えて、アスファルトの細長い暗渠道に至る。
柵が設けられている。
直進していくと、直進する暗渠と、斜めの暗渠(目黒1-17-5前)の2つに分岐する。斜めの暗渠はフェンスで立入禁止にしている。
斜めの暗渠の方が古い。
明治時代の古地図から読み取れるのは、いつかの時点で、斜めの水路を潰して、直進に切り替えたようだ。
斜めの暗渠
裏から回って撮影。
斜めの暗渠は写真のように目黒川方面へ。
暗渠箇所にはコンクリート蓋がしてある。
この暗渠は、傳道抱屋敷の横を通り抜けた水路と合流して、目黒川(ふれあい橋)に至る。
肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷を通過し3分岐して目黒1丁目に注いだ三田用水の流路https://t.co/5cttz5RkVb
バイパス1つ目の続き
"グリーンベルト"タイプの暗渠に変貌
目黒1丁目都営住宅5棟はは碁盤の目のように張り巡らされた三田用水暗渠の中に建設→"中洲"
先刻動画と逆方向から撮影 pic.twitter.com/a3bj7VDtW8— 暴れん坊将軍徳川吉宗(徳田新之助の『自転車で寄り道の旅』) (@ramenfirst_mtmt) 2019年5月20日
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