【画像と史料ですっきりわかる目黒1丁目界隈の郷土史】第5章 肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂Ⅰ~千代ヶ崎抱屋敷南側境界線の権之助坂 2019/05/21
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【第5章】肥前国島原藩主松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷周辺の坂
1.千代ヶ崎抱屋敷南側境界線の権之助坂
①由来
行人坂が急勾配なので、新たに緩やかな坂として開かれた権之助坂(上大崎村永峯町)は、ちょうど、松永主殿頭抱屋敷の南端に沿っていた。
《資料》安政3年(1856年)実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
《資料》明治40年前後実測復元地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
《資料》安政3年・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
《資料》明治・平成15年重ね地図(行人坂・権之助坂・金毘羅坂)
権之助坂の由緒には幾つかの伝承がある。
A)名主の菅沼権之助が許可なく作った坂(その咎で死罪とされた)
B)盗賊の権之助が処刑される前に、この坂の頂上から家を見返ったその坂
C)名主の菅沼権之助が年貢米の取り立てを緩めてもらおうと直訴したことが罪に問われ、処刑される前に、この坂の頂上から最後にひと目我が家が見たいと願い出たその坂
私と同じ目黒出身の南天本店(椎名町駅前)オーナーによれば、同級生に菅沼権之助の子孫がいて、子孫の方及び下目黒小学校の社会科の授業においても「Cが正しい」と教えている。私の出身校(田道小学校)では権之助坂の名の由来は教わらなかった。
なお、権之助坂は、その開通前に「目黒道」との接続道路(二子道)だった行人坂に対して「新坂」と呼ばれ、坂を下ったところにできた橋は、太鼓橋に対して「新橋(目黒新橋)」と呼ばれた。
②放射3号支線開通
昭和43年、権之助坂商店街を貫通して、もと久米邸の敷地(明治初期までは松平主殿頭千代ヶ崎抱屋敷の南端)に、放射3号支線が開通し、従来の権之助坂は、一方通行下り車線のみとなった。
★昭和30年代に撮影された貫通前の写真と、昭和43年放射3号支線開通直前に撮影された写真を、次のリンクより確認することができる。
昭和30年代の権之助坂商店街
このまちアーカイブス(目黒・大崎)
ほぼ同じ場所から撮影(2015/4/28)
「このまちアーカイブス(目黒・大崎)」を見てから撮影したわけではない。
数年後、同じ場所(古本屋前)から撮影した画像もある。
人が権之助坂を伝えるのに最適な撮影スポットなのでしょう。
昭和43年放射3号支線開通間近の権之助坂商店街
めぐろ歴史資料館2
===参考資料===
『江戸明治東京重ね地図』平成16年(2004年)株式会社エーピーピーカンパニー)
江戸から明治の品川名所 第9回~目黒道(品川区ホームページ)
===バックナンバーリスト===
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