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古道「椎名町道」3.3kmの旅①(伊勢皇太神宮改め天祖神社・金剛院・長崎不動尊・十羅刹女社改め長崎神社・帝銀事件) 2019/02/01

「椎名町道」
北は長崎不動尊から旧道川越街道との交差点までの2.7km(ここから先は旧川越街道を経由して中仙道平尾宿・仲宿に至る)。
※現在の川越街道日大病院入口交差点までの区間
南は長崎不動尊から清戸道までの0.65km(ここから先は古道=新宿道を使って現在の下落合駅まで南下→中井駅付近で山手通りに沿う古道を南下して中野村下宿に出て宝仙寺から堀之内道へ入る)。
※現在の目白通り聖母坂上交差点までの区間
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椎名町駅の南側のうち、参考までに、新宿区側(新宿道)の様子。
新目白通り下落合駅前交差点(神田川)の北側には新宿道「西坂」がある。
現在は「聖母坂」が開通しているので、用がなければ利用しないだろう。
※写真左は新目白通り、真ん中は西坂、右は聖母坂
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新宿道西坂の名は、江戸時代後期の森江家文書の絵図に認められる。
かつて、西坂の東側にあった徳川男爵邸の牡丹園は盛時に一般公開されていた。
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明治43年頃の古地図を確認すると、現在の聖母坂の南側に邸宅があった(聖母坂開通に際して取り壊された)ことがわかる。
※写真は聖母坂南側
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急こう配な坂を上ると西坂公園。
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西坂公園から坂下を撮影。
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坂の頂上は目白通り(清戸道)
目白通りが新宿区(下落合村)と豊島区(長崎村)との境界線になっている。
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清戸道を東に進み、聖母坂上交差点へ。
右が聖母坂(新宿区)、左が豊島区。
椎名町道の起点。
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椎名町道から交差点(起点)方面を撮影。
なお、聖母坂は少なくとも明治43年までは存在しなかった。
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起点から椎名町駅方面に向かう。
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山手通り方面に向かう。
通りに沿って左側に天祖神社がある。
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正門は山手通り沿いにある。
境内は山手通り拡幅工事の際、一度取り壊されている。
従って、今の神社は平成10年11月に再建されたものである(記録に残っている限りでは、大東亜戦争で廃墟になって以来、再建は2回目)。
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手水鉢
奉納は「文政十一戊子 九月吉日」とある。
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天祖神社の旧名称は「伊勢皇太神宮」で金剛院持の神社であった。
長崎村字大和田(南長崎3丁目北部)・椎名町(南長崎1丁目と2丁目)・荒井(目白5丁目西部・同4丁目南部)・鼠山(目白5丁目東部・同4丁目西部)の鎮守であった。
神社は字椎名町(椎名町道を挟んで荒井との境)に位置した。
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踏切を渡り、椎名町駅北口へ向かう。
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椎名町道の北へ
駅前の金剛院からスタート!
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金剛院は室町時代の大永2壬午(1552)年、聖弁和尚によって開創された真言宗豊山派の寺院で、正式名称は「真言宗豊山派 蓮華山 金剛院 佛性寺」という。
開創当時は豊島区長崎3-29にある観音堂(金剛院の境外仏堂・土着地主の村墓)の位置にあったと言われている。
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観音堂には寛文2壬寅(1662)年(左)と延宝8庚申(1680)年(右)の年庚申供養塔が祀られている。
元はここから南西=豊島区長崎3-19付近にあったことようだ(明治40~43年地図より)。
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山門は薬医門様式で、安永9庚子(1780)年に建立された。
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庚申供養塔(左)と馬頭観世音(右)
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庚申供養塔は宝永4丁亥(1707)年11月13日に建立されたことがわかる。
願主には、足立・秋本(「秋元」を名乗っている)・大野・市川姓などが見られる
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馬頭観世音は新しい。
「明治十丑年五月吉日」とある。
→明治10丁丑(1877)年5月吉日
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弘法大師様
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この裏手にひっそりと「マンガ地蔵」が祀られている(わかりにくい)
このお地蔵さんはマンガの聖地「トキワ荘」(豊島区南長崎3-16)の方角を向いている。
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本堂は昭和29(1954)年に建てられた。
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本堂の前にある「木石」
樹齢1000年からなる欅は長い歳月を経て石に変わった。
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金剛院の外には「長崎不動尊」が祀られている。
金剛院の什寶である長崎不動尊は、昭和21(1946)年10月、地蔵尊の守護仏としてこの地に祀られた。
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地蔵尊は寛政8丙辰(1796)年8月24日に造立された道標地蔵尊である。
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右下には「北 下板橋道」
左下には「南 ほりの内道」
という文字が刻まれている。
北は中山道仲宿方面へ向かう人々、南は妙法寺へ参詣する人々への道しるべになっていた。
なるほど!
「椎名町道」は「下板橋宿(仲宿)」と「妙法寺」に向かう人々のための近道であったわけです。
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長崎神社は、元は「十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ)」と呼ばれ、明治元年に神仏分離令が発令されるまでは、別当寺である金剛院が管理していた。
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村社に定められたのは明治5年。
それから2年後の明治7年に長崎神社に改称された。
江戸時代の古地図を見ると、山手通りと都道441号(現在、千川通り方面へ延長工事中)長崎一丁目交差点の道路に金剛院持「十羅刹女社」があったことがわかる(江戸時代と2005年の重ね地図)。
十羅刹女とは、法華経に説かれる同経護持の10人の女性のことで、初めは人の精気を奪う鬼女だったが、仏の説法に帰依して鬼子母神同様、法華行者を守護する神女になったという伝承がある。
元々、氷川神社に属していたらしい。
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享保18(1733)年11月奉納の手水鉢には「奉・十羅刹女」「武州豊島郡長崎村」「享保十八癸丑年十一月吉日」と刻まれている。
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「寛政元己酉年正月吉日」(1789年)奉納の石灯籠
奉納者には地主の足立氏や小川氏の名前が刻まれている。
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長崎神社の中から見えるマンション。
ここは帝銀事件の舞台となった「帝国銀行椎名町支店」の跡地である。
帝銀事件とは、昭和23(1948年)年1月26日、帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した青酸化合物による12人毒殺人事件。
検察による平沢貞通死刑囚(昭和62年95歳で逝去)に対する「拷問・冤罪事件」として悪名高い事件として有名である(後に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の解決で功績をあげた平塚八兵衛刑事も捜査員として関わった事件である)。
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このエリアは小字名「並木」といい、並木姓を名乗る地主さんは少なくない。
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【参考リンク】

板橋宿本陣・板橋・板橋大木戸と火の見櫓・縁切榎(板橋宿上宿・仲宿)

妙法寺参詣道(堀之内道)から鍋屋横丁”お題目石”(鎌倉街道)・鍋屋横丁交差点(青梅街道と鎌倉街道)へ

堀之内新道歴史探索!堀之内新道と大久保通り交差点(田中稲荷前)

清戸道(旧目白通り~目白通り二又商店会~千川通り・・・清戸下宿・館村)

鎌倉街道を行く(笹塚十号通り~南長崎6丁目)

太田道灌~江古田原・沼袋古戦場!

古道「椎名町道」3.3kmの旅①(金剛院・長崎不動尊・十羅刹女社改め長崎神社・帝銀事件)

古道「椎名町道」3.3kmの旅②(子育て地蔵尊への分岐路・御嶽神社・谷端川分水・要町2丁目の破損した庚申供養塔・長崎富士)

古道「椎名町道」3.3kmの旅③(”兵隊みち”や”鎌倉街道中道”との重複路線・旧川越街道下頭橋通りとの合流)